2013年11月26日火曜日

自分と違う立場の人


11月23日(祝)私の古巣、劇団河童座のお芝居、「わしゃ喰っちょらん」を観に行く。
11月24日(月)ずっと見たかった映画「ツレがうつになりまして」をDVD鑑賞。


「わしゃ喰っちょらん」は、横須賀の劇団、河童座の精鋭メンバーによる、痴呆症になった老人と、その家族の物語。
ツレがうつになりまして 「ツレがうつになりまして」は、堺雅人と宮崎あおい演じる、うつ病の夫とその妻の物語。

これを続けて観ることによって、自分という人間の良識がいかに狭いかということを思い知らされる。


現代(特にこの20年)は、力づくで個性や数字を形作るためだけに終始してしまい、人としてのあり方、命の尊厳が軽視されている世界のように、私は思えてならない。
がんばっていても、人と同じように出来ないという理由だけの人に、人は次のような言葉を畳み掛けて、彼の一厘の希望の光さえも閉ざそうとする。

「頑張ればどうにかなる」
「やってやれないのは、やらないからだ」


その結果、人は発言することを辞めた。


どうせ言っても判ってもらえない。

理解して欲しくって、「私たち」にしかわからない孤独を共感して欲しくって、勇気をもって発言することに対して、人は果たしてどれほどの人間としての理解に対する努力と情けや暖かさを、彼に対して持てたのだろうか?


私が観た両者の家族は、とても優しかった。
物語に登場する、周囲の人たちには、本当の悪い人などいなかった。


しかし、現実はそうではない。

そう簡単には、人は人の苦しみを理解しようとはしない。

発言せずに泣き寝入りをしている人がどれだけ多いことか…。

社会に発信するための、上手い言葉が言えないから、言い返されずに(なるほど、そんな世界もあったのか)と思わせられる良い言葉が見つからないから、人はさらなる孤独の沼へと落ちていくのである。

こうした目に見える判りやすい「言葉」を発信出来る先駆者には、多大な恩恵が授かるだろう。


痴呆症の人や家族、そしてうつにかかっている人や家族たちは、彼らのおかげで、ただ一言言えば、どんなに頑なな人でも、少しは理解出来るようになるのだから。

「ねぇ、これ見てみてよ」って。


2013年11月3日日曜日

正義の人

 
私がある先生のところで体験したお話しです。

 「良くない人」とされている人のことを、一人の若い女性が激しく責め立てる場面があったんです。

 「良くない人」とされている人は、確かに生き方になにかしら問題があるのかも知れません。

 しかし、それを責め立てている女性は、「良くない人」を激しく責め立てられるほどの、生き方などしていない人だったのです。

 それなのにどうして、他の人には決して見せないような言動を、「良くない人」だけに彼女は見せたのでしょうか…?


 「良くない人」は彼女の心が映し出された鏡だったのです。


 彼女は、そこに写る自分の姿が、どうしても許せなかったのです。

 
 どうしても認めたくなかったのです。


夢千代