2014年5月15日木曜日

Facebookという存在

皆様、お久しぶりです。寺千代です。

今年二月の終わり頃からFacebookを始めました。

そちらの更新は、ほぼ毎日のように行っているのですが、こちらのブログやホームページの更新があまり手つかずになってしまっているので、今日はそのところのご報告をしなければ…と思い立ち、久々にこのページにアクセスしました。


Facebookをされていない方に、まずそれは何かと言いますと、SNS(ソーシャルネットワークサービス)のひとつで友人同士やまた、友人から派生した人と人を結びつけるツールのひとつです。
他のSNSと違い、実名で登場しなければならないため、私も当初心配していたような荒々しい言葉や、意見に対する誹謗や中傷などが少なく、かなり良心を持った方たちが、交流
しているような気が致します。

私も占い師をやっていたころから、ホームページやブログを使って、様々な試みをしていましたが、これらの欠点というものは、常に配信→視聴者という図式が一方通行で、私が配信したものを、どんな方が見てくれているのか判らないところがありましたし、特に、悩みを持った方というのは、概して自己中心になりやすく、自分の話はいくらでも聞いて欲しいけれど、人の話は聞きたくない(笑)という傾向がありましたので、私もただ与えるだけの関係にほとほと滅入ってしまったところがございます。

現在は、紫微垣の中において、直接意見を交わすことも出来ますし、自分が悩んでいたことが、私だけでなく他の方の意見を聞くことで、別の角度から自分を見直すことも出来る。
そんな紫微垣の在り方に、近いんですね、Facebookというものは。

SNSの中で、交流するための礼儀として、自分の書いた記事を見てもらったら、見てもらった人たちの記事も見て差し上げることがあります。「いいね!」と「コメント」というものがあるんですが、「いいね!」というのはこの記事を見たよ、この記事に文字通り好感を持ったよ、そういった軽いフットワークのように自分のいわばスタンプをその記事を書いた方、もしくはその記事を見ている方に残すことが出来ます。
Facebookは、他のSNSと違って実名登録ですから、もちろんそこに私の実名も載っていますし、「寺千代」でも検索できるようにしたあるんですけれども、そこに参加している意思表示みたいなものは、ちょうど教室の講義のなかで、「~こう思う人?」と言われて「はい!」とクラスの何分の一かが手をあげるような、スタンスのように感じています。

ただそのことで、糾弾されるとか(笑)どうしていいね!押してくれないんだとか(笑)そういったことはありません。
コメントは、基本的に何を書いても良いのですが、やはり良識を持った、また誰もがそのコメントを見ることが出来る位置にありますから、最低限のマナー(あまりにも感情的になったり、人を凌辱するような言葉)などは、もちろん避けるように致します。

SNSというものは、自分の趣味であるとか、こんな成績をとったとか、こんなお料理作ったとか、いまここにいますとか、そんなたわいもないことから、こんな新聞記事見ましたとか、私はこういう商売しています、どこどこにお店があるので来てねとか、実に幅広いコミニュティツールとなっていますが、私はそこに「毎日の言葉」という中国の四書などの古典の解説や、またその時その時に目についた何気ない日常などもUPしています。

「お友達(SNSの中での)」を申請していただくと、私の記事をいつも見れますし、またお友達になっていただいた方の動向を、私自身が知ることも出来ます。
紫微垣に来られなくても、他人を知り己を知るための良い機会になれますし、どうしても内向的になってしまう方にとっては、外の世界へと向かうちょうど良い心地よさが得られると思いますので、なかなかこちらを見ても私の動向がつかめないという方(笑)は、ぜひFacebookをご利用ください。

ちなみに、自分を表す個人の画像を貼る必要があるのですが、中には芸能人の顔や飼っているペット、風景などを載せる方もいらっしゃいますが、他のSNSは別として、Facebookでそれをされている方は、覚悟がない、良識がない、信頼できないとして、私は受け付けないようにしております。

ホームページのほうもまた少しづつ更新していきたいと思います。
よろしくお願いします。




2014年3月19日水曜日

「愛するあなたへ」の誓い

海外で買ったお土産のプレート。改めて訳してみました。
私の超訳です。

Bless This Home
Within these walls,we share our love.And strive to do thy will At times we falter in our steps.But you are with us still.Your guiding light has shown the way.And given us so much.God,bless our home and keep us strong We need your healing touch.Amen.

この家庭が幸せでありますように
この生活空間の中、僕たちはそれぞれつまずく度に、何度でもお互いを思いながら、それぞれのやり方で立ち上がろうと努力してきたね。神様はそんな私たちの気持ちに応えるように、私たちを祝福し、導きの光を授けてくれたんだ。「二人でいれば、どんなことだって乗り越えて行けるんだよ」神様はそう言いながら、優しく私たちの頭をそっとなでてくれました。

夢千代

2014年3月18日火曜日

両手に刻まれたもの

                                                                                                         Photo by (c)Nature-Free

わが心の悲しみを 天は知ってか知らずか
無情にも 時は流れ続ける

千変万化の人の夢は
時として 私を勇気づけ 時として私を傷つけもする

わが心に刻まれた 喜びも 悲しみも 一緒くたになってやがて形となり
両の手に刻まれた無数のシワのうちの一本となる

最高齢 明治生まれの翁が差し出した 大きな手のひらには
傲慢もあれ 謙虚もあれ…
そのすべてを否めることなく
堂々として 立派で 強く やさしく 真面目で ユーモアがおありのこと
そんな存在が そこに笑顔で立っていた

万事塞翁が馬
我見で 省みるばかり 涙するばかりでは 決してほんものの大人にはなれない
あなたの偉人(ヒーロー)に学ぶべし
夢抱きながら 
未完成のまま 永遠の個の完成に向かって 歩むべし

yumechiyo






2014年3月15日土曜日

覚悟ってな~に


家に帰るバスの中で、僕の奥さんが

「プロとアマの違いは、覚悟だね」と言った。

自分の言った言葉を確かめるかのように、「覚悟」なる文字を、
webの辞書で検索している。


僕は、
「“覚悟”とはあきらめることだよ」と言った。

「そう書かれているよ」

そうだったね…。でも、僕の言っている意味は違う意味なんだ。

プロはきっと血も肉も骨の髄まで、それで出来ている。
だから自分が他のことでベストを尽くそうったって、所詮無理なのさ。


アマは、夢中になったものを平気で浮気したり、壊したりする。
続けるってことは、やはり尊いことなんだね。

さしずめ主婦なんか、愛のプロフェッショナルなんじゃないかな?

夢千代

2014年3月14日金曜日

あせらんでもええよ


まぁまぁ、そんなこわいかおせんと…

また今日から頑張ればいいがな(^○^)


夢千代

2014年3月13日木曜日

霧雨の降りそそぐ朝


細やかな雨がミスト(霧状)となって地球に降り注いでいます…

「…雨になっちゃいましたねぇ」

送迎の車の中で、運転されている地元の方にそう呼びかけると、
彼は、ちょっとむきになったようにしながら、

「恵みの雨ですね。畑の作物のためにはよかった」
とひとりごとのように応える。

ここは、都心部を離れた旅先、日本の田舎。

北に行っても、南に行っても、僕は不特定の“彼”と出会い、
何度“はっ”とさせられたことだろう。

「快適」とか、「不快」とか、
それは“自分側”から感じたひとつの“可能性”でしかなくって、

「好き」とか「嫌い」っていうやつも、
自然や植物たちから見たら、「私」とはもしかしたらまったく違う感覚を持っているのかも知れない。


夢千代

2014年3月12日水曜日

いいから思った通りにやってご覧よ。
正解か否かなんて、そんなこと考えないでさ。
どっちに転んだって、見えてくるのは自身のハートだけだよ。

人の顔色なんて気にしちゃいけないぜ。
今日も自分が本当に正しいと思ったことをして、精一杯生きるんだ。
人も、自分も、みんなひっくるめて大好きになれるような、私でいられるようにね。

2014年3月11日火曜日

3/11の投稿

3/11
今日は、あの日でしたね…
みんなのなかの何かが、壊れていった、きっかけだった。
皆さんの心と向き合う鑑定の仕事をさせていただいた私は、ここ横須賀のなかにいても、お客様たちの心がいつも以上に荒れていることに気がつきました。



3/11
14:46。黙祷を捧げましょうよ。
亡くなられた私たちの同胞のために。
そして、いまも希望を持って一生懸命に生きている、皆さんのために。
そして、誇りを忘れず、これからも歩き続けるあなたのために。。




夢千代

3/10の投稿

3/10
 
 
あの日とおなじ海を見ているはずなのに、あなたと見る今日の海は違っている。

 気がつけば、いつも微笑っている私がいる。

 硝子越しに目の前を通るおおきな船が、いつのまにかとても遠くへ、過ぎてゆくように、
つい昨日のことのような心の痛みも、忘れていることにふと気がつく。

いつかみたあの映画も、繰り返し読んでボロっちくなってしまったこの本も、
いまだって変わらずに大好きだけれど、
あんなに奪われることを怖れてあがいていた頃は、
ひとりぼっちで、とても窮屈で、太陽がきらいだった。

あのころとおなじまちのなかで暮らしながら、私は大人になったかなって、想う。

 何度も困らせたあなたの顔に刻まれた、目のよこにあるくしゃっとしたシワの数は、
わたしが犯した罪の記し。

そのシワの奥にある瞳は、何度でも私をゆるし、何度でも私を救ってきた。
「いつかきっと、あなたが自分の力で生きていけますように」

優しい瞳が、ほほ笑む。

私も強い人になろう。
夢千代

3/9の投稿

3/9
どんなにみじめな想いをしていても、とびっきり幸せなふりをしていればいい。
そうすれば神様はきっと、その笑顔にふさわしい本当の幸せを、わたしに与えてくれるから


3/9
「条件付きの受け入れ」なんて、そんな野暮なこと言っちゃあいけないぜ。
光も影もあって、それで人間さまなんダ。大人だったら、両方認めてあげなきゃさ。光で影を消そうとするから、「消されまい」って、余計寂しい心がまたひとつ増えるんだからさ。


夢千代

フェイスブック

10年使っていたPCが壊れてから、我が家のIT革命が起こったということは、すでにお話ししたとおりです。
あれから私もフェイスブックを始めることとなりました。

一週間程使ってみて思ったのは、このブログのように、個人の想いを伝える道具ではないのだな、と。使っていらっしゃる方は、みなさん、友達が欲しかったり、何か意図する欲求があるように思えます。

でも、大林宣彦監督も言ってらしていたけれど、発明とは、その時代にとって必要なものが形となって表れてくるのでしょう。
だから、私もこの時代を生きるものとして、遅ればせながら、続けてみようと思っています。

最近、フェイスブックのほうの更新ばかりして、こちらが留守になってしまっていたので、フェイスブックをやっていないけれど、このブログを読んでいただいている方のために、どちらでも私の記事が見れるようにしておきましょう。

記事を三つほど、過ぎてしまったものをこちらでも公開致します。


夢千代

2014年2月28日金曜日

温故知新

 
 
2月が終わろうとしている。
 
この弐月は、我が家にとって、まさにIT革命の月だった。
 

丸10年、僕の人生とともに働きつくしてくれたパソコンの寿命が尽きた。

いま、こうして文字を打っている新しいPC。それと時をおなじくしてiフォンなるものを使うことと相成った。

妻は、facebookだ、やれLineだなどと、その好奇心を近未来へと馳せ、その行動は留まることを知らない。

私は、いつも以上に古めかしい言葉で、その混乱ぶりを表現しようと、しているように思える。


我が家のひな人形は、実に40年ぶりにお目見えした。

子供のころの記憶は、子供のころにいた祖父母の家で鑑定をしていたせいか、結構鮮明に覚えている。現代の現実の世界のほうが、なんだか夢の世界のようだ…。

……な~んて。
ま、慣れてしまえばどうってこと、ありませんけどね。

進化することで判る、現代人の気持ちというものもあるのですから。。

いっそのこと、バリバリにこの情報化社会のなかに、君臨してしまおうか、、そんな野望もないわけではないのですゾ。


夢千代


2014年1月16日木曜日

憲法は生存権を保障している

なぜ経済大国・日本で「餓死者」が出るのか 「悲劇」を防ぐ手段はどこにある?

弁護士ドットコム 1月15日(水)11時26分配信

結局のところ、食うにも困るような「生活苦」に陥ったら、途方に暮れるしかないのか?
電気、ガス、水道が止められ、冷蔵庫にはマヨネーズなどの空容器のみ……。そんな大阪市の団地の一室で昨年11月中旬、31歳の女性の遺体が発見された。死因は餓死か衰弱死とみられ、死後1~2カ月経っていたという。

報道によると、この女性は約4年前に生活保護の相談で区役所を訪れたものの受給には至らず、最近は「お金がない」と親族に訴えていたという。経済大国といわれる日本だが、餓死や孤立死などの悲惨なニュースは絶えることがない。生活保護に対する風当たりは強まり、行政による窓口対応の問題点も指摘されている。

結局のところ、食うにも困るような「生活苦」に陥ったら、途方に暮れるしかないのか。今回のような悲劇を防ぐには、どうしたらいいのだろうか。貧困問題に取り組む戸舘圭之弁護士に聞いた。

●憲法は「生存権」を保障している

「誰でも、さまざまなきっかけで貧困状態に陥ります。貧困は自己責任ではありません」

戸舘弁護士はこのように切り出した。自己責任ではない、となれば、誰の責任になるのだろうか?

「日本国憲法25条1項は『すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』を保障しています。いわゆる『生存権』です。

これは、貧困は自己責任ではなく、国の政策の失敗の結果であることから、すべての人に対して『人間らしく生きる権利』すなわち『生存権』を国家が責任をもって保障するという規定です。

生活保護は、この憲法25条に基づく国の制度としてあるのです」

努力によって貧困を避けられたケースもあるのでは?

「生活保護は、生活に困っている人ならば誰でも、困窮に陥った原因を問うことなく無差別平等に利用できる制度です。したがって、生活に苦しくなり、毎日の食事にも困るような状態になれば、当然に生活保護を利用し、生活費や住宅費、医療費等の支給を受けることができます。

努力することはいいことですが、誰でも努力できるわけではありませんし、そもそも努力するためにも最低限の経済的な基盤は必要です。現に貧困状態にある人に努力などを要求して保護を拒絶することは、その人に不可能を強いることであり、『努力しない人間は死んでもかまわない』と言っているに等しいと思います」

●「生活保護制度を遠慮せずに利用しましょう」

そういう制度があるのに、現実には餓死や衰弱死が存在するのは、なぜなのだろうか?

「現実には、生活保護を申請しようと役所(福祉事務所)の窓口に行っても、『まだ若いから働きなさい』『親族に扶養してもらいなさい』『ホームレスは生活保護を受けられません』『住所がないからダメです』『他の制度を利用してください』などと告げられ、追い返されるケースが後を絶ちません。

しかし、こういった口実は、生活保護の申請を受け付けない理由にはなりません。このような役所の窓口対応は『水際作戦』と呼ばれ、明らかに違法なのです。

こうした問題は、生活保護に詳しい専門家に相談することにより、解決することが可能です。弁護士、司法書士による無料相談窓口としては首都圏生活保護支援法律家ネットワーク(http://www.seiho-law.info/)などがあります」

たとえば、周囲に裕福な親族がいる場合にも、生活保護は受けられるのだろうか?

「親族の援助、扶養を受けることも、生活保護を受けるための要件ではありません。

昨年、生活保護法が一部改正されましたが、憲法25条に基づく最低限度の生活を国の責任で無差別平等に保障するという基本的な考え方は全く変わっていません。

とにかく生活に困ったら、生活保護制度を遠慮せずに利用しましょう」

(弁護士ドットコム トピックス)

【取材協力弁護士】
戸舘 圭之(とだて・よしゆき)弁護士
民事事件、刑事事件、労働事件等に取り組みながら、ホームレス、生活保護などの貧困問題や追い出し屋対策などの住まいの問題にも取り組んでいる。
第二東京弁護士会、首都圏追い出し屋対策会議事務局長、ホームレス総合相談ネットワーク、青年法律家協会弁護士学者合同部会副議長、首都圏青年ユニオン顧問弁護団
事務所名:代々木総合法律事務所
事務所URL:http://www.yoyogi-law.gr.jp/
弁護士ドットコム トピックス編集部

                                            以上引用文終わり
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 働きたくても働けない人がいる。

 年間何万人もの人たちが、自ら命を絶つ理由の第一位は、健康上の理由だという。

 「自由」と「平等」たる間違った信念が、彼ら弱者を、死へと追い込む。

 犯罪者は、何も、片手に凶器を持つものとは限らない。

 
 心無い言葉ひとつ、

 愛のない無表情ひとつ


 彼らは至極当然の役割を果たしていると信じながら、人を絶望の淵へと追い込む。

 この国にも、違う人種が二種類存在しているようだ。

 
 善意の仮面を被った鬼の犠牲になってあげることなど、決してない。



夢千代

2014年1月4日土曜日

一月一日

 
日本のお正月を彷彿させるもののひとつに、フジテレビで放送されていた「新春かくし芸大会」がありました。

 何をもって、お正月らしかったのかといえば、良く知るいつものTVの顔である芸能人たちが、こぞって艶やかな和服姿に身を包み、いつものあの歌をみんなで歌う姿でした。

一月一日
1、
「年の始めの 例(ためし)とて 終(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに 祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ」
2、
「初日のひかり さしいでて 四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに比(たぐ)えつつ 仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ」

 新春かくし芸大会は、2010年のお正月までやっていたそうですから、若い方でも知っている方はたくさんいらっしゃることと思います。

 この一月一日(いちげついちじつ)(…と読むそうである。初めて知った)は、昨年60年に一度の遷宮が行われたことでも話題となった、出雲大社の第八十代の宮司であった千家尊福(せんげ・たかとみ)が作詞したものです。


 さて、昨年は、わが国に希望の光が差し始めた年です。

 いよいよ富士山が世界遺産に登録され、また東京オリンピックの招致が決定、12月にはわが国の和食が、世界無形文化遺産に登録されました。景気のほうも、アベノミクス効果で上向いてきました。

 老いも若きも、皆が何か自信を持てず、人目ばかりを気にして、窮屈な想いで生きなければならなくなったのは、いつの頃からでしょうか?

 私は、国民が自分たちの国であるこの日本のという国に、誇りを持ち、共通の喜びと認識を取り戻せるよう、もっと大らかに、もっと笑顔で生きれるよう、文化を継承していきたいと想っています。

 お正月になった瞬間、あの懐かしい(私はTVで観た)あの歌を高らかに歌いながら、この歌のことを調べていました。千家尊福宮司は、やはり昨年式年遷宮であった伊勢神宮と出雲大社を、共に生かしながら(長い間葛藤の歴史があったのです)この日本の礎を守っていきたいと、宣言された素晴らしい御方。

 TVで一月一日を歌っていた、芸能人たちも、私が子供の頃から良く知る(私はS45年生まれ)人たちばかりで構成されて、この歌の歌詞にふさわしく、嬉しい楽しみなお正月のひとコマでありました。

 ところが、そのままネットサーフィンをしていましたら、

唱歌「一月一日」は歌ってはいけません

という題名があった。何事かと想ったら、まぁ酷い…→


老人ホームでこの歌を歌っていたお年寄りの歌を辞めさせたとあります。
しかも、その理由が、歌詞に天皇が出ているからとか、いないとか。。

先輩方の思い出をなんと心得る!これは自由の侵害というやつではないのですか?

これは2007年の記事だから、当時30代とされるこの【事件】を起こした当人は、私と同世代とお見受けします。

この記事を書かれた、吉備野庵の管理人様は、昭和5年生まれ。1年半前から、更新されていないようだから、もしかしたら、すでにご存命ではないのかも知れない。。

そんな管理人様、第二次大戦中は、少年であり、今後はますます数少なくなる、戦争の実体験者。
その彼が、この事件に関してこのように述べられております。

このアタマでっかちの職員や施設長のような”観念”ではなく、骨の髄まで染み込んでいます。何しろ15年間、ことあるたびに歌って来たのです。
でも、その私すら、今、「君が代」や「一月一日」を聞いても、特別、深刻な危機感を感じることはありません。悪い思い出は60年前の天皇陛下の人間宣言で吹っ切れています。それによって妄執から自己解放も出来ています。後は「赦し」の問題。あの悪夢の時代の愚挙を赦し、新しい時代への戒めとする。私より高齢の先輩達はすべて心に残るわだかまりは解消しています」

私は、私の大好きな歌に泥を塗られたような気がして、さらに、自分たちの住む国をその国民が愚弄していると知って、非常に情けなく想いました。

管理人は、この歌の成り立ちを蕩々と述べ立てたとするこの者を「たぶん勉強家なのでしょう」と謙遜(管理人は元新聞記者である)されているが、いやいや…どうして。自分に都合の良い結果をもたらすために、都合の良い言葉を並べ立てて、何も知らぬ無垢な人たちを教化しようとしただけで、真実を無視し、人々に罪悪感を植え付け、自国の文化を消滅させようとする。売国奴。その職員の正体は、覇者であります。

天皇様という存在も、神道も、かつて軍によっていいように利用されて参りましたが、現在はその御身を象徴とされた現代も、そこにそうして在られることによって、平和が保たれているのだということを皆さん知っていてください。中心無き世は、分裂の世です。戦いの世です。

国無き世は、親なき世です。親なき世は、教育なき世です。指針なき世です。

私は、個々人の思想や学問のことにとやかく言うつもりはありませんが、このようにひねくれ、ひん曲がった、ドグマに凝り固まって人を攻撃するこの輩を、私は同族同世代として、非常に恥ずかしく想います。

夢千代