2016年6月25日土曜日
どんなときも、心を自由に保つ!!
FACEBOOKをやって良かったなぁと思うことのひとつに、致知出版の存在を知ったことです。
致知出版社 http://www.chichi.co.jp/info
月刊誌「致知」は、古今東西の師たちの生きざまを記す、人間学の雑誌です。
facebookには、同誌の中からピックアップされた名言や人生の師たちの生きざまを、毎日ご紹介しています。(ちなみに今日はこんな言葉が載せられていました)
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安岡正篤師の座右銘 「六中観(りくちゅうかん)」にある言葉です。
◎ 忙中閑(かん)あり ――忙中に掴んだものこそ本物の閑、也。
◎ 苦中楽あり ――苦中に掴んだ楽こそ本当の楽、也。
◎ 死中活あり ――身を棄ててこそ浮ぶ瀬もあれ。
◎ 壺中(こちゅう)天あり ――どんな境涯でも自分だけの内面世界は作れる。どんな壺中の天を持つか。
◎ 意中人あり ――心中に尊敬する人、相ゆるす人物を持つ。
◎ 腹中書あり ――身心を養い、 経綸(けいりん)に役立つ学問をする。
師は平生ひそかにこの6つを反芻し、 いかなる場合にも決して絶望したり、 仕事に負けたり、屈託したり、 精神的空虚に陥ったりしないように 心掛けている、と言っている(『安岡正篤一日一言』)。
(facebookのアカウントを持っている方は、こちらから見られます) https://www.facebook.com/chichipublishing/?fref=nf (致知出版のページ for Facebook)
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安岡正篤先生は、紫微垣の中でもたびたび登場す玄学には欠かせない人物ですが、 それは難解な古典なども、私たちにわかりやすく説いてくださることです。
学問といえども、ただ難しい本を片っ端から読めば良いというわけではありません。 こうした師と出会い、その学の捉え方学び方を学ぶことは、とても大切なことのように思います。
上記の言葉が難しく感じる方も、急いで読み解こうとせず、スピードを落としてじっくりと判読していってみてください。 すべての意味がわからなくても、音読みで捉えず、訓読みで咀嚼していけば、おのずと何となく意味がわかってくるでしょう。
ちなみに上記の6つの言葉はすべて、「覚醒し続けていること」に通じる言葉です。
たとえば、お釈迦様は、「仏陀=目覚めた人」と呼ばれましたが、これは一日のうちに何時間か目覚めているわけではありません。 お釈迦様はこう言っておられます。 「私は、悟りを開いてから、今まで眠ったことがない。目覚め続けている。それがゆえに仏陀なのである」と。
夢千代
2016年6月23日木曜日
善と悪について(人をどう教育するか?)
こんにちは。善と悪について、皆さんはどのようにお考えでしょうか。
私は、この二つの言葉を知れば知るほど、根拠の無い、自己中心的な言葉はないというように思うようになりました。
私が皆さんの鑑定をしていた当時も、この言葉に絶対的な価値観は感じておらず、私が社会に出た頃から、相対と言う言葉にこそ価値観を見出しておりました。
それが、ひとりひとりの人間の価値観を生み出し、私のなかで見た目や生い立ちにおいての差別を意図的に無くしていった方法でした。
兎角、人は正義感に溢れると、盲目的な善人と化し、自らの立ち位置を忘れてしまいがちになります。
怒りとは、正義感からやってくる場合がありますが、この怒りの正体さえも、仏教でいう所の貪むさぼり・瞋いかり・癡むち(とん・じん・ち)から来ていることが多く、中でも無知なるゆえの勘違いから発する怒りが実に性質の悪いものであると思うのです。
さて、今日は、FBでお世話になっているねずさんこと、小名木善行(おなぎぜんこう)さんのブログから、教育について考えてみたいと思うのです。
小名木善行 ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3056.html
ねずさんのブログを拝見して、「一罰百戒」と言う言葉を、はじめて知り得たわけですけれど、いわゆる私たち以前の先生の教育方法ですね。「バケツを持って立っていなさい」とか、私自身の経験で言えば並べてひっぱたかれたこともありましたよ。ねずさんの先生は鞭を持っていらしたらしいですけれど(笑)
ここで冒頭にお話しした善と悪が出てくると思います。
この一罰百戒は、時には体罰も辞さないやり方であると思います。
皆さんは、体罰についてどう思われますか?
私は立場上、こう思うとは言わず、こうであるという言い方を申しますが、子供に体罰は有効であります。問題なのは、同じ手をあげるにしても、親の業で殴るのか、それが愛の鞭なのかの違いによって子供の心に傷が残るかどうか変わってくるのです。
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さて、この「一罰百戒」西洋に似た言葉があるとすれば、「一罪一罰」ですね。
…あれ?そんな言葉あったかなぁと思われるかも知れませんが、皆さんのよく知る言葉でいうと
「目には目を、歯には歯を」です。
これが西洋における平等社会における教育であると私は思います。
ところが、こちらもねずさんの言葉をお借りするならば、日本はもともと平等社会ではなく対等社会であったと、
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3041.html
さらに、日本と言いますか東洋のすべてがそうなのですが、横社会ではなく縦社会であります。
目上の言うことを聞いて、しっかりとピラミッド型の組織を作ることが、日本の対等社会のもっとも基盤となるものです。
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現在読んでいる小学 (中国古典新書) (四書五経の「大学」を読む以前に、幼少の者が生き方の指針とした書)にもこのようにしっかりと書かれております。
「楊文公の家訓に曰く、童稚の学は記誦に止まらず。その良知良能を養うには、当(まさ)に先入の言を以って主と為すべし」 嘉言第五-2
・良知良能とは、人が生まれながらにして備わった道徳的能力と知恵のこと。
・先入の言とは、まっさらな心の状態において、いちばん先に刻まれる言葉のこと。
大人の私たちでさえ、何をもって善か悪か?わからない。
そのわからない大人が、はたして子供を教え諭すことが出来るでしょうか?
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これから私は、何か子供のための仕事をしていきたい!
現代の大人の悩みを解決するすべは、たぶんありませんよ。
ほとんどが我欲や環境的苦痛を解消したいだけ。
それは自己努力の先にのみ存在するものですね。
それは私の役目ではないと、はっきり覚りました(笑)
夢千代
2016年6月21日火曜日
原点との出会い
先日、6/15(木)~19(日)にかけて、群馬県倉渕にあります、はまゆう山荘に行ってきました。
目的は、私の奥さんである宮川久美さんのコンサート。私も朗読で一部出演しました。
倉渕という所は、そうですねぇ…スタジオジブリの「トトロ」に出て来る森のような場所です。
手のひらいっぱいに、あれもこれも…と遊び場所を求める方には、あまり向いていない場所かも知れません。 その代わり、普段、街の中に住んでいる人たちの中で、「癒し」とか、「気付き」とか、「本当に必要なもの」とか、 私のところへそんなものを一度でも求めにいらした方にとっては、宝の山かも知れませんね(^o^)
さて、最近の私は、人の裏、世界の裏を見過ぎたために、心がダークになっておりました。
どんな人生も、どんな知識や体験も、尊いことに変わりはありませんが、それでもいちばんつらく感じるのは、本人と その家族なんですね。
僕はもともと、好奇心のめっぽう強いほうでして…ひとつの世界を徹底的に探究してしまうクセがあります。 ところが、その研究にしても、ただ知識として持っているだけではどうしようもないことがあります。 私の父は、私以上にやはり本を読む人でして、ある年齢になった時「あまり小説を読まなくなった」と言っていました 。その理由を尋ねたら、「空想のなかに使う時間がもったいなくなった」のだそうです。 ところが私は逆でした。 現実を知れば知るほど、救いが無くなるのです。 仏教や神道も、(あくまで抽象論なので誤解が無いように願いますが…)もう学ぶことが無くなってしまったのですね 。真実を知れば知るほど穢れてしまうというジレンマに、私は、とにかくそれが空想でもいい…人の正気と向き合いた い。もう一度人というものを信じてみたい。。
そのような気持ちにやっとなれてきました。 はまゆう山荘では、私にはかなりの時間、一人でいられることが出来そうでしたので、あることを思い立って出発をし ました。
それは、はまゆう山荘に着いたら、少年少女の読むような世界の名作を、ゆっくりと読んでみたいということでした。 はまゆう山荘の談話室には、少年少女向けの本が何冊か並んでいます。 そのラインナップは、現代の小中学生がというよりも、私たちが小さい頃、読んでいたものが多く、子供用の本といっ ても、私は全く抵抗がありません。却って、たくさんの本が読めることになっていいでしょ。 私が読みたかったのは、モンテ・クリフト伯(日本では「岩窟王」と訳されています)でしたが、置かれていなかった のですね。
他のものを読もうかとも思いましたが、気が進まず、どうしようかと思っていた時に、ふと目にした本がありました。
漫画だったのですが、それはドラえもんの映画の原作でした。
ドラえもんの映画第一作は、「のび太の恐竜」で、1980年公開だったそうですが、私はこれを映画館に観に行っていま す。映画ドラえもん の び太の恐竜【映画ドラえもん30周年記念・期間限定生産商品】 [DVD] なんどかブログにも書きましたが、私は1970年生まれで、現在のドラえもんが始まったのが1979年ですから、私が小学 校4年生の時。 のび太君の年齢の設定が、小学校4年生ですから、僕はずうっとのび太君と同級生だと信じて生きてきたんですよ。 僕たちが小学生の頃は、みんなドラえもんをあたりまえのように、特に大晦日やお正月のドラえもんは、もう欠かさず 楽しみに見ていましたが、中学生になると、「中学にもなってドラえもんなんて見ないよね」という友達のお母さんも 現れたりして、放送は変わらずあったものの、自然と見なくなってしまいましたね。 ドラえもんの映画の第一作 のび太の恐竜から、のび太の宇宙開拓史・のび太の大魔境・のび太の海底鬼岩城・のび太 の魔界大冒険・のび太の宇宙小戦争くらいまではタイトルだけでも記憶があるんですけれど、それ以降は、まったくな じみがありません。 子供の頃、あれだけ好きだったドラえもんの映画をわずか数作しか知らないのは、なんだか損した気持ちでいたことも あって、世界の名作を読むつもりが、ドラえもんを読み始めてしまったんです(笑)
それはまさしく、私の原点でした。 私はジュール・ベルヌ(海底二万里・八十日間世界一周・神秘の島 etc)が大好きですが、考えてみれば、どらえもん を見ていたからこそジュール・ベルヌにすっと入っていけたのですね。
当の作者の藤子不二雄先生など、逆にジュール ・ベルヌなどから発想のヒントを得ているはずですが、僕はその逆をたどっていっている。面白いものですね。
アニメブームという時代が、僕の子供の頃にもありましたが、その内容は蒼々たるものでしたよ。
ちょっと思い出すだけでも、ルパン三世、世界名作アニメ劇場、花の子ルンルン。キャンディキャンディ。男の子も女 の子も、どんなアニメでもみんなで見ましたし、その作者も男の漫画家先生が描いていたり、女の漫画家千世が描いて いたり、あまり区別というものはありませんでした。
僕たちはその中から、世界の国々を学び、日本の歴史を知り、花や木や鳥や獣たちの名前をひとつひとつ覚えていきま した。 それと同時に、私たちが生きているこの世界と思っている世界は、実は広大な宇宙のごく一部であり、海の彼方にある 外国はもちろんのこと、宇宙と他の星々、地底世界、四次元空間、過去と未来、空想の生き物たち、目に見えない霊魂 の世界、ふだんは気が付かない極小の世界。 これらを知ることで、僕たちは思いやりのある、優しい子供でいられたような気がします。
はまゆう山荘滞在中に、五冊くらいのドラえもんを読みましたが、その中でも印象に残ったのが、大長編ドラえもん (Vol.5) のび太の魔界大冒険 (てんとう虫コミックス) 。
「魔法が使えたら…」という少年少女であればだれでも夢見るその願いに、藤子不二雄先生は、真剣に答えています。
(かつて、人類は魔法を本当に一生懸命に研究した。魔法は科学の一部でもあったんだ。けれども、確実な科学の力が証 明の難しかった魔法の歴史を終わらせてしまったんだ)と。
のび太君は、ドラえもんの道具「もしもボックス」を使って、人間が科学でなく魔法を正史として選んだ場合の世界の もしもを願い、その世界を体験し始めます。 皆さん、空飛ぶじゅうたんがあちこちに浮遊している光景をちょっと想像してみてください。 楽しくなってきませんか(^o^)
夢千代
2016年6月14日火曜日
2016年…時を越えて、いま想うこと。。
Photo by (c)Tomo.Yun
皆さん、お久しぶりです。
お元気ですか?
10年ひと昔、、と言いますけれど、私も46になりました。
占いをやっていた頃の自分を、ようやく客観的にみつめられるような年齢になったなぁと思います。
今日は、『いまを生きる』というテーマについてお話ししてみたいと思います。
私は、もともと、あまり人とのコミュニケーションが上手ではないのですが、
占いというアイテムを持ち得てから、実に、たくさんの方たちとお会いしてきました。
実際、私と会ったことのある方は、私を通じて“占い”の持つ不思議な魅力に惹かれたことでしょう。
「幸せとは、他からやってくる」という言葉を、その時にたくさんの方にお伝えしました。
幸せとは、やはり、自分も自分の周りにいる人たちも、みんなが笑顔でいられることが、ほんとうの幸せのはずです。
私は「心の書」を若い頃からほんとうにたくさん読んできましたけれど、
そのなかに書かれていることは、多分に漏れず「人をしあわせにすること」でした。
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さて、お話しは変わりますが、最近、私の心にとどまったある言葉がありましたので、ご紹介したいと思います。
“人生の中間地点とは、いったい何歳くらいのことだろう。たぶん、19歳くらいなのだと思う。それは、数字的なことではなくて、人の意識的な意味合いを含んでいる”
年を重ねると、自分の所有する“時間”の概念というものが、だんだん狂うようになってきます。
一日が、一年が、とても短く感じて来るのですね。
ですから、実際に人の寿命というものが、80か90か仮にそれくらいあったとしても、じゃあいまはちょうど私くらいの46歳という年齢が中間地点かというとそうではありません。
いまから、若い頃のようにまったく新しいことを始めようとしても、そのエネルギーはもう別のものであって、日々のことどもを消化していく年齢に、入りかけているように思えます。
では、私の人生の中間地点は幾つだったかと言えば、やはり19歳というのは妥当だった気が致します。
その頃の私の夢は…“人を救いたい”“世界を救いたい”ということでした。
あの中間地点から、ここにいたるまで、世の大人たちからは、「自分のことも出来ないのに」との言葉があたりまえのように言われましたけれど、私はいま自分というものを、あらためて外から眺めて見た時に、やはり…あれが自分の原点だったのだなと思います。
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さて、今日のテーマ『自分のために生きる』ですが、この年齢になって思うことは、「時代」や「若者」や「常識」といった言葉の持つ意味が、すっかり変わってしまったなということです。
私は体も弱く、あまり自分から人の中に入っていけるタイプではなかったので、20代までに培ったキャパシティは、実体験を重ねられた皆さんと比べると、実に狭いものだと思います。
しかしながら、実世界に侵されていないぶん、純粋に「人」というものな何か?「世界」というものはなにか?人にとって幸せとはなんなのか?について、じっくりと研鑽学習できたことも確かです。
あの頃は、学校で教えられたことも、社会の風潮も、為に生きるということが、善であり、美徳であったように思います。
『汗水流して、人の為にいっしょうめい働く』
その想いや根底は、現在の私にとっても決して揺るぎのないものです。
しかし、その反面、占いを通じて、または自身を深く分析して、この時代を迎えていま想いますのは、人のしあわせのために、自分のしあわせまでも譲ってはいけないということです。
占いのお客様の中でも、深い苦しみを抱えていらした方は、皆、自分ではない誰かの犠牲になっていた方がほとんどです。
その他にも幾つかの要因がありますが、それはまた機会を譲ると致しまして、自分の最後の幸せだけは譲ってはいけない(そこまでしていいのは、信頼関係の成り立っている、自分と血のつながった親子や夫婦だけです)。
御相談者の中には、親に苦しみ、子に苦しみ、夫や妻に苦しんでいる方もおられましたから、それはそれぞれの立場や状況に応じるため一概には申せませんが、概して、いっぽうてきに与えられるものだけを望む人、見返りだけを望む人は、親子夫婦といえども、害にこそなれ、いくら情に訴えてきたとしても、関わりをこそ考えるべき、ましてや強要されるものでもありません。
私はいま、時を越えてこの時代に言葉を発するとしたら、
「自分のために生きてください」
まずはそのように申し上げたいと思います。
夢千代
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