2013年12月18日水曜日

「執着」と「支配欲」


 昨日、私の奥さんの久美さんの2日間に渡るホームコンサートが終了しました。

 コンサートには、ある小学校の学校の先生方もお見えになったんですけれど、その時に現在の子供たちのことについてのお話しになりました。

 家には、私の両親や、母の友人など、私や久美さんの小さい頃の「子供たち」を良く知る大人たちがいました。
 大人たちが、こんな質問をしました



「先生、昔の子供たちと今の子供たちと、何か違うことはありますか?」


 その前に…、私も、パソコンを子供たちに教えるという仕事で、何件か小学校にお邪魔したことがあるんですけれど、私が感じたこの質問に対しての私の答えを申し上げておきます。

「子供たちも先生も、昔とさほど変わらない。子供は子供だし、先生は先生」です。



 さて、先生は、子供たちの現状をお話しくださいました。

「子供たちが朝ごはんを食べずに登校して、倒れてしまう子がいるので、校長先生がそういう子を呼んで、校長室でカップラーメンを食べさせてあげます」

「怪我をしている子がいたのでどうしたのか聞いたら、お母さんが「明日、学校に行って保健室で手当てしてもらいなさいって言われた」というので、保健の先生は、そういう子達を手当てすることに最近なれました」

 私たちの世代の感覚では、ちょっと信じがたいお話しだったのですね。

 これ以上の詳しいお話しについては、どこまでが守秘義務になるのか存じませんのでこれくらいにしておきますけれど、そこにいる全員が、これは子供ではなくて、親が変わってしまったんだな…という結論に至りました。


 「現代の親御さんは、皆、働いていて忙しい」と先生方は、言います。

 しかしながら、
 「親は、子供よりも、自分のやりたいことを優先しているのだ」と言います。

 そして、「子供は親のペット」ではないのだろうかと言います。


 私は、「親が子供なのだ」と言いましたら、先生方は「そのとおりです!」と言いました。


 小学生の親御さんと言ったら、ほとんどが私たちより下の年代でしょう。

 ところが!ただ、若いからというだけではない。私たちの親の世代の中にも、そういった、子供よりも、自分たちのやりたいことを優先するという人種が存在するのです。

 
 それが、悲しいかな、私たちの親世代の中にも、存在している…。
 2013年。私の今年一年は、思えばそういった人種たちとの戦いの連続でした。
 人として決して尊敬出来ない、惨めで哀れな大人たち。。

 次の世代、子供たちの未来。
 周囲の人たちの幸せ。

 ~そんなことはどうでもいい。
 ~お前なんか、どうだっていい。

↓何かとあると決まって彼らは、このキーワードを口にします↓

 「『私』にはそれを得る『権利』があるのだ!」

 
 …ようは『執着』ですね。『我執』『我欲』

 (自分の思い通りにしたい)


 自分の思い通りにしたら、今度はそれを拡大していきます。

 『支配欲』。『征服欲』

 

 「運」というものについて、長年多くのことを学んで来ましたけれど、運の正体は「心」ですね。心が豊かでなければ、一度得ても、どこかで破綻する。悪銭身につかず。猫に小判。豚に真珠。


 私は、世界なんか欲しくない。
 すでに世界のすべてのものは、与えられています。
 すべてのものは、神様のもの。神様のものは、私たちのもの
 そして、私たちは神様の子。お借りしていた、この世のすべてのものは、死んだら全部神様にお返しする

 世の中には、自分の知識をひけらかしたり、実力のあることを、これでもかと世間様に強引に認めさせようとする輩がいますが、私にはどうして彼らがそうやって背伸びをして、分不相応のものを手に入れたいと思うのか理解出来ません

 きっと、心が貧しいのです。

 仏教でいうところの、餓鬼
 そこから出ない限り、彼らは永遠に本当の幸せはつかめません。

 
 私や妻は、他所様の家庭ほど、収入こそ豊かではありませんが、背伸びをして無理に認められようなんてしたくはないと思いながら、お互いにずっとそうやって生きてきました。
 天から与えられた、生まれたまま、ありのままの心と体を使って、私たちの出来る限りのものを伝え残して、世間様からさらに学びを得、寿命が来たら「今までありがとう」と言って、死んでいく。

 それが、成功だろうが失敗だろうが、私たちにそんな物差しは必要ない。

 ただただ、つまらないことで心を痛めて、自分の人生を無為にしたくはない。

夢千代

2013年12月14日土曜日

武士の一分


今日、12月14日は、私のご先祖様、寺坂吉右衛門が、他の赤穂義士たちとともに、主君浅野内匠頭の遺恨を晴らすために、吉良邸に討ち入り、見事、本懐を遂げた日です。

私の父は、今日、泉岳寺へ。

私は、久しぶりに横須賀中央へ行っておりました。

横須賀中央と、そして平坂を上ったところにある上町は、私のふるさとです。

最近、岩戸に越したばかりで、こちらの生活にもようやく慣れては参りましたが、どこか言いようのないストレスがたまるのですね。
もともと私は、静かな土地で暮らすことを夢見ておりました。

ここ数年は、人間というものに疲れてしまい、特に田舎暮らしに憧れていましたから、ここは田舎というほどの場所ではありませんが、それでも近くに山あり川あり、そんな生活をありがたく思っていたのですね。

久々に横須賀中央に出てみて驚きました。
中央と申しましても、これは上町のことなのですが、空気が違う。

これは、空気が良い悪いではなくって、歴史の重みと言いますか、風格といいますか、明らかに街の中心街、確固とした王者の雰囲気をかもし出しているのです。
木が、家々が、街の至る所にある路地や、人の顔つきも違う。

私は、こんなところに生まれ、ここで育ったのか、と、まだ引越して数ヶ月した経たないにも関わらず、新たな発見をしたのです。

ところで、私は最近ある方から、身に余るようなお褒めの言葉を頂戴致しました。
社会的地位も高く、またそのお人柄も人としての器も、尊敬できるような方から、私の知的能力や感性について喜ばしいといったような内容でありました。

私は、すぐに「恐縮致します」と申しましたが、続けてこのように申し上げました。

「しかしながら、我が事を離れ、この国の未来のことを憂うこの気持ちがどこから来ているかと申しますと、私もきっとサムライの血が流れているのです」と。

三つ子の魂百までもと申します。

両親の教育というものは、皆さんが思った以上に、私たちの心を、そしてまた、生き方、考え方、感じ方の原点となる大切なものです。
私は、この家系に生まれたこと。そして、横須賀中央に生まれたことに、誇りを持ちます。これから私が、どんなに大きな仕事を成し遂げた時にも、私の原点は、常に、この二つから生じていることを、皆さん覚えておいてください。

夢千代

                                       画像:イラストポップ

2013年12月8日日曜日

クリスマスとミトラ教の関係






                   
クリスマスの季節が近づいてきました。

クリスマスというと、皆さんは何を思い浮かべるでしょう。

クリスマスのメインカラーは、赤と緑と金なんですって。

赤は、キリストの血を、緑は復活を、金はこの世の繁栄を示しているのだとか。


10年くらい前でしょうか?
クリスマスの12月25日の日が、イエス様がお生まれになった日ではなく、冬至(太陽の復活)と深い関係があることを知ったのは。

キリスト教が出来る前、ローマ帝国ではミトラ教という宗教が、ありました。
時の皇帝なども、信仰していたそうですが、今ではそれほど詳しいことは文献にも残っていません。

ただ、12月25日という日が、「太陽の復活祭」としてあてがわれていたものを、そのままキリスト教が受け継いだということは、割合よく知られているようです。
(昨年の紫微垣もこれにならって、冬至祭りを行いましたね)

昨日、世界ふしぎ発見で、ローマにある、このミトラ教の遺跡、神殿などが紹介されていました。

それによると、ミトラ教の神であられるミトラス神が、牛を殺そうとしている当時の壁画が残されており、このモチーフはミトラ教にとってとても重要なものなんだそうです。

牛というと、私などは丑寅の季節、陰の極まりである丑のことを思い浮かべてしまうのですが、それを殺すということは、春の訪れを意味するという、ミトラ教の牛が何を意味するものであるかまでは、放送されていませんでしたが、もしかしたら、東洋の12支ともどこかでつながっているのではないかなどと、想像を膨らませたのでした。

                                   画像提供:風と樹と空とフリー素材

夢千代

今日学んだこと

イタリア語で『オーティウム』何もしない時間。


2013年11月26日火曜日

自分と違う立場の人


11月23日(祝)私の古巣、劇団河童座のお芝居、「わしゃ喰っちょらん」を観に行く。
11月24日(月)ずっと見たかった映画「ツレがうつになりまして」をDVD鑑賞。


「わしゃ喰っちょらん」は、横須賀の劇団、河童座の精鋭メンバーによる、痴呆症になった老人と、その家族の物語。
ツレがうつになりまして 「ツレがうつになりまして」は、堺雅人と宮崎あおい演じる、うつ病の夫とその妻の物語。

これを続けて観ることによって、自分という人間の良識がいかに狭いかということを思い知らされる。


現代(特にこの20年)は、力づくで個性や数字を形作るためだけに終始してしまい、人としてのあり方、命の尊厳が軽視されている世界のように、私は思えてならない。
がんばっていても、人と同じように出来ないという理由だけの人に、人は次のような言葉を畳み掛けて、彼の一厘の希望の光さえも閉ざそうとする。

「頑張ればどうにかなる」
「やってやれないのは、やらないからだ」


その結果、人は発言することを辞めた。


どうせ言っても判ってもらえない。

理解して欲しくって、「私たち」にしかわからない孤独を共感して欲しくって、勇気をもって発言することに対して、人は果たしてどれほどの人間としての理解に対する努力と情けや暖かさを、彼に対して持てたのだろうか?


私が観た両者の家族は、とても優しかった。
物語に登場する、周囲の人たちには、本当の悪い人などいなかった。


しかし、現実はそうではない。

そう簡単には、人は人の苦しみを理解しようとはしない。

発言せずに泣き寝入りをしている人がどれだけ多いことか…。

社会に発信するための、上手い言葉が言えないから、言い返されずに(なるほど、そんな世界もあったのか)と思わせられる良い言葉が見つからないから、人はさらなる孤独の沼へと落ちていくのである。

こうした目に見える判りやすい「言葉」を発信出来る先駆者には、多大な恩恵が授かるだろう。


痴呆症の人や家族、そしてうつにかかっている人や家族たちは、彼らのおかげで、ただ一言言えば、どんなに頑なな人でも、少しは理解出来るようになるのだから。

「ねぇ、これ見てみてよ」って。


2013年11月3日日曜日

正義の人

 
私がある先生のところで体験したお話しです。

 「良くない人」とされている人のことを、一人の若い女性が激しく責め立てる場面があったんです。

 「良くない人」とされている人は、確かに生き方になにかしら問題があるのかも知れません。

 しかし、それを責め立てている女性は、「良くない人」を激しく責め立てられるほどの、生き方などしていない人だったのです。

 それなのにどうして、他の人には決して見せないような言動を、「良くない人」だけに彼女は見せたのでしょうか…?


 「良くない人」は彼女の心が映し出された鏡だったのです。


 彼女は、そこに写る自分の姿が、どうしても許せなかったのです。

 
 どうしても認めたくなかったのです。


夢千代

2013年10月24日木曜日

人を育てる心


 神社に行くと「まことの道」と書かれた短冊が、積み重ねて置かれており、ご自由に一枚づつお持ち下さい。と書かれている。発行は、神奈川神社庁。毎月出ているのか、「十月」と添えられている。

 私自身にとっての覚書としても、そばに置いて置きたい言葉だから、ここに記しておこうと思う。



  世の中に人を育つる心こそ
  我をそだつる心なりけれ

            荒木田守武『世中百首』
 

 裏書もスッと腹に入る言葉だから、そのまま転載させていただきたいと思う。


「すべての物を生かし、伸ばすことが神道の産霊(むすび)の教えである。

 そのためには“俺が、俺が”という“我”があったのでは、自他共に生成化育を阻害することになる。

 共にすべてを生かすためには、無私・無欲であり、生かされて生きる道を知るべきである。

 その意味で、この和歌は神道の二つの教を併せて説いたものとして、俚耳(りじ)に入り易い調べを持っている。即ち人を立てるものにして初めて人に立てられ、人を生かすものにして、初めて自分の生かされるのが、古今の真理である。

 人を愛して愛される。同胞相愛についても、その順序はまず人を愛する所から始めるべきである。」
                                (神道文化会編『神道百言』より)

 
これは、現在の私の先生から学んだ「母性」に通ずるものである。

わかりづらかった、産霊(むすび)の意味も、これでようやく理解出来た。


実に神道らしい。強いては、わが国日本らしい、深く、簡素な、良き、教えである。


夢千代

2013年10月23日水曜日

何も変わらない





明け方、夢を見た。



新居にきて、二ヶ月が経った。

朝、いつものようにゴミだしに行こうとして目を覚ます。


大きなポリバケツのゴミのふたを開ける。
中には何も入っていない。

(あぁ、結局ここには何も捨てなかったんだな)


昨夜、祖父と祖母が何か言い合っていたことを思い出す。



周りを見渡すと、壁面の上から下まで、びっしりと綺麗に並べられた革靴がある。
レジのある方から、店の中を見渡すと、そこにはいつもの良く知った靴屋の光景があった。

(なんだ、何も変わらないじゃないか)

そう思い、ほっとする。


ふと目の前に、僕が持ってきたはずの古いそろばんが置かれていた。
(全部持ってきたと思っていたのに、まだ残ってたのか。こんなことなら、そのまま置いておけば良かったかな)
この場所があるなら、僕が持っていても意味のないもの。

でもそのそろばん、どこか形がおかしい。

僕が持ってきたそろばんは、五つ玉だが、そこにあるそろばんは、三つ玉!?である…。

五を数えるための珠が、上にひとつ。
一を数えるための珠が、下に、三つ…。

やけにそのそろばんだけが、意識の中にクローズアップされる。

なにかが、おかしい。
でも、それ以外は何も変わらない。
何等、変わるところはない。

それなのにそのそろばんだけが、非日常さを物語っていて…。
僕はようやく、これが「夢」なのだと感じる。


夢なのだと感じながら、確かに存在したこの日常の空間。

夢の最初にほんの少し登場した
じいちゃんやばあちゃんの心の心象風景だということを、
理解する。


古い家から、新しい家に持ってきたものは、五つ玉のそろばんだけ、じゃあない。

家の象徴である、仏壇もまた新しい我が家に越してきた。

これからもまだまだ健在である僕の両親に代わって、僕が仏壇を引き取ったのには訳がある。

毎日、いつものように僕が続けていた習慣を、そのまま続けさせてもらいたかった。


そう、みんなに頼んで、僕のわがままを聞いてもらった。


祖父母が暮らした心象風景。

その記憶とこの光景を、僕は辛うじておなじものを共有している。


現実の世界では、もう数年も前に変わってしまったはずなのだけれど、
明け方に見た夢の中では、
その世界こそが現実であって、
よく知った世界であって…。

そんな共通の心象風景を持ちつつ、
今(その後の未来)を生きながら経ている僕が、
すでに変わり身となってしまった祖父母に対して、手を合わせたら、
その心霊空間には、それぞれのどんな想いが交錯するのだろうか。。


今日も新しい一日がはじまる。

わが家のゴミボックスから取り出したゴミは、先ほど収集所へ置いてきた。

これから、仏壇の前に行き、今朝見た夢のことを祖父母に報告してみようと思う。

きっと喜んでくれるに違いない。そう思っている。


夢千代

2013年9月29日日曜日

灯篭の斧

                       

 蟷螂の斧という言葉がある。

 蟷螂の斧(とうろうのおの)
《カマキリが前あしを上げて、大きな車の進行を止めようとする意から》弱小のものが、自分の力量もわきまえず、強敵に向かうことのたとえ。 goo辞書より

 今まで知らなかったのだが、蟷螂と書いて、そのまま「カマキリ」と読むそうだ。


 さて、石段を歩いていたら、カマキリがいた。
 さほど大きくなく、茶色のカマキリである。


 しかしカマキリのその姿とは、攻撃態勢ばりばりの姿に見える。
 決して遠慮する様子など見られない。

 僕は履いていたサンダルを、彼のシンボルであるその鎌(カマ)に近づけてみた。 
 …半分は、真剣に対峙し、半分は、愛着をもって対峙する。

 果たして、彼はどうしたであろうか。

 
 
 すると、、、

 
 僕のサンダルにぶらさがってきた。

 これはやられた。
 まさか、こう来るとは想わなかった。

 なんだかかわいくなって、そっと地面においてやった。


 


 

 



2013年9月25日水曜日

知る者たち…

















分かり過ぎれば弱くなる。
分からなければ、平気でいられる。
「知らないから仕方ないこと」を許されようとする。
「知っているものに、聞けば良い」と安易に想う。

知ることは、苦しみ。
理解されぬ苦しみ。
知ってしまった苦しみ。

そんなことあるはずないと言われる苦しみ。
そんなもの見えるはずがないと言われる苦しみ。


無明は、苦しみ。
自分を知ろうとしない苦しみ。
これで良いと思う苦しみ。

人に頼らなければ、もの読めぬ苦しみ。
己知らぬ苦しみ。
人傷つけ続ける苦しみ。

「助けてください」は、
「私の代わりに苦しんでください」に他ならないことを知れ。

安易に聞くなかれ。
安易に語るなかれ。
安易に嘆くなかれ。

世を知れ。

学び続けよ。

智恵のまなこを開け。

光明なるものだけが知り、荒涼たる大地に風が吹きすさぶ。
分からぬ者は、分かったふりをして威張りちらし、親なる愛を分かってもらえぬ者が、肩を落としている。

そんな輩のなんと多いことよ。


夢千代

2013年9月9日月曜日

いま、想うこと

 
いまだから話せることって、あってね。

 僕のこの二年半というのは、巨大な嵐の中に置かれた一艘の小舟のようでいて、必死で縁をつかまりながら、振り落とされないようにしているのがやっとだった。どんな言い分も、言い訳も通用せず、突然表れた魔人たちが目を見開きながら、大口を開けてにやにやと笑うような箇所を幾つも通過してきたように想います。

  占いの個人鑑定を辞めた頃、やはり辞めるには辞める理由というものがあってね、占い師はただ事象を当てれば良いということではなくって、その人の時にはお父さんやお兄さん代わりになって、親身に話を聞いてあげることが、少なくありませんでした。 

  ところが、その人から発せられる愚痴や言い訳や、不安や心配などは、皆さんが想っている以上に、聞くものの健康を蝕んでゆきます。

 いまはとてもじゃないけれど、そんな愚痴の温床になるようなことは出来なくてね、元々僕は占い師という称号が、どうしても好きになれなくて、それはなぜだかというと、師匠から占い師になるな魂の救済者たれと教えを受けたからでね、自分はずっと魂の救済者だと想って、鑑定を続けさせていただいたんです。現在はあの時の自分のような占い師は、ううん、これからもきっと現れないでしょうね。

  それでも、いつも、いつでも、僕と皆さんのあいだには、越えられない壁のようなものがありました。こちらがこんなにも適切な、この方を表すキーワードを伝えることが出来たと想っても、その本人が真の自分を見ようとしていないから、ぽかんとしていることもあったりしてね。 
自動販売機に100円入れて、自分の好きなジュースのボタンを押したら、それがポンとその場で出てくる。そんなのが好きだったら、神社に行っておみくじでもひいていればいいのにね。

 皆さんにお送りした、個人鑑定終了のメッセージ。そして、紫微垣開設のお知らせ。

 僕は、占いはあくまでも方便。占いという運命学の世界の入り口を通じて、人の生き方、命の大切さというのを説き続けてきたつもりだったのだけれど…、そう、おいでになる皆さんも、私の話を聞くのが好きだとおっしゃっていたから、紫微垣の開設にいたったのだけれど、いざふたを開けてみたら、今まではあれだけ頻繁に連絡のあった方々から、見事にぷいっと連絡が来なくなりましたね。

  まさに、占いの切れ目は縁の切れ目。

 悪いものをこちらに放るだけ放っておいて、では実際にあなた自身の器を大きくする学びを致しましょうとやったら、そんなことには興味ないのね。


 私の恩師の丸山先生など「自分は奴隷だよ」などと、生前お話しされていましたけれども、その頃は何をおっしゃっているか分かりませんでしたね。でもいまは、私がやっていたのは、まさに皆さんのゴミ箱だったのだと、そのように思っております。都合の良い時だけ来て、散々自分が悪くないとだけ言って欲しくって、感謝とかありがとうなんていう言葉は、その場の潤滑油みたいなものでね、本音は、都合の良いゴミ箱だったと。そのことを知った時、自分はかなり深い心の傷。
 人間というものが、いまはもうあまり信頼出来ないし、限界を知ってしまっているから、あまり好きではないですね。  
 
 私には、元々霊感があって、二年前に占いの個人鑑定を辞めた直後、たくさんの皆さんにお知らせしたはずの紫微垣のお問い合わせがほとんどないことに、とても寂しい想いをして、神様にお伺いを立てたことがあるんです。
 その答えは、ビジョンで見せていただいたのですけれど、砂糖に群がる蟻の大群だったのですね。(そうか、お客様は「占い」という甘い餌をもらいに来た蟻だったのか)とそうしてはじめて納得したんです。

  私から皆さんに連絡しなかったのは、ある一人の女性のお客様が原因で、一斉メールってありますよね。それをたまたま、その方のアドレスも伺っていたので、お知らせしたら「一斉ってなんですか!私のアドレスが他の人に知られてしまう。これって犯罪じゃないですか!私のデータは残らずシュレッダー処分にして、私のアドレスは完全に消してください」っていう怒りのメールが届きまして、その方がどんな性格のどんなお客様だったか、私は忘れてしまったんですけれど、この方もたぶん、他の方と同様、しっかりと面倒見てアドバイスして差し上げたと思いますが、それにも関わらず、そのような態度を取られたことに強くショックを受けましてね、それで皆さんにもメール差し上げるのが怖くなってしまったんですね。ええ、もちろん一斉メールの常識くらい分かっていますよ。代表は自分のアドレスに送って、すべてのお客様にお出ししたメールは、すべてBCCでお送りさせていただきました。「わかりました。でもそういうことでしたら、もう二度と連絡してこないでください」という方も幾人かいらっしゃいましたし、「今までありがとうございました」というメールはあっても、「これからもよろしくお願いします」というメールはほとんどありませんでした。


 現、塾生番号一番の方は、違いました。
私があの長いメールをお送りして五分後に、「私のような者でも、紫微垣の入塾をご許可いただけますか?」とご返信いただきましたから、やはりこういったものは、ご縁だと思うのです。

  現塾生の方たちとも、何度も疎遠になろうとしましたが、そのたびに、ちょっとしたことが原因で、またいらしていただいたりして、きちんと残る方は残っています。

  中には、一度いらしていただいて、こちらも嬉しくてね。このままずっとご縁が続いていくかと思いきや、「家のことで…」「習い事が」「気に入らない人がいるから」って、本当にこちらががっかりするような理由で辞めていく人が何人もいたの。


 人の幸せのあり方っていうのはね。確かに、様々な形があるんだけれど、僕が占い鑑定を通じて見てきた人たちをトータルしてみると、ほとんどが自分さえ良ければいいというね、「我良し」の人がとても多いですね。それでいて、やたらに「不幸」になることを怖がっている。そのくせ、努力はしたくない。人からは何か言われたくない。自分の好きなようにやりたい。

 占い師から見れば(誰から見たってそうなのだけれど)、ほとんどが因果応報でね。蟻とキリギリスではないけれど、自分がその時にやらなかったから、いまこうなったんじゃないか。それを何十年分もの、怠惰な人生をご破算にして、たかだか30分か1時間の占いで、どうにかして欲しいって、これはあまりにも虫が良すぎる話しだなと思ったのね。

  僕の考える幸せと、お客さんの考える幸せは、違う、と思ったときに、もう自分が占いで伝えられることはないなって思ったのね。真剣に話を聞いているこちらが馬鹿みたいだし。僕が人を救いたいと思っていたのは、一人でも多くの社会に益する人に自信を取り戻して欲しいからであって、わがままな人を正当化するために自分の命を削っていたのではないのね。結局は、その人そのものの生き方が変わらなければ、本当の幸せなんてつかめるわけがない。本当の幸せとは、足る心、思いやり、そして感謝ですよね。感謝なきものに、幸福感なんてあるはずがない。
 餓鬼が良い例でしょ。


  自分は何のお役目があるのだろう。社会のためになにが出来るのだろう。
 占いは、あくまでも僕の伝えたいことの方便だった。その方便を続けていくには、数々の愚痴や悩みに耐えられる体力がない。もうゴミ箱にはなりたくない。これ以上続けたら、たぶん僕は半年も生きていないだろう。その代わり、世の中でいちばん必要で、現代の社会のなかで、いちばん欠落していると思われる、いちばん良い仕事をしているはずなのに、人が集まらない。人が去っていってしまう。自分はなんのために生きているのだろう。。

 そんな話しをうちの奥さんとしていた時に、彼女はこう応えました。

「わかるなぁ。私もね、小さい頃、自分がなんのためにピアノ弾いているかって、正直わからなかった。自分が本当にピアノ好きかっていうと、実はそうでもないんだよね。同じ年齢の子供たちと上手くコミュニケーションが出来ないから、自分はそのぶん他の子よりも少しはピアノが上手いと思えるから、だから自信を持つために、みんなから注目されるために、弾いていたような気がする」って。

 もっともそのあと、「でも、その後ピアノを続けていったら、私は本当にピアノが好きなんだって自覚したけれどね」とも言っていました。


 そうそう、僕が中学の時に聞いた担任の先生の話なんですけれど、すでに高校生になったかつての先生の教え子がいたんですって。女の子で、とても足が早くって、高校のインターハイの代表に選ばれたんだけれども、TVのインタビューを受けて、その子が信じられないことを言ったっていうんですね。「足が早いということで、今期待のホープ。皆さんがあなたのことを注目していますが、インタビューさせてください。あなたは、なんのために走っているのですか?」彼女はこう応えました。「私は、自分がどうして走っているのか分からない。自分が、走ることが特別に好きなわけでもないのに、来る日も来る日も走っていて、なんだか馬鹿みたいだ」って。


  20代の頃。僕はこんな詩を書いたことがあります。
「プロフェッショナルというのは、誰もが憧れる何かを極めたエキスパートだ。しかし、プロフェッショナルの嘆きというものは、すでに気がついた時には、それしか出来なくなっているという事実なのだ」と。
 本来ならば、僕も生活のために占い師をやっているのだろうか?
 個人鑑定を辞めた年、ある大手の会社から、ネットの番組のオファーをいただいたこともある。
 しかし、もはや人を助けたいというあの渇望したような欲求が、自分の中から沸いてこなくなってしまった。みんな無視するなら無視すれば良い。苦しい時の神頼みだけしておいて、必要なくなったら、まったく連絡もよこさない。

  以前、ある神社の白竜神の話をしたけれども、願いをかなえるだけかなえて、お礼もなく、神職の祈願もなく、ボロボロになって朽ちているあの龍体を見た時に、僕は、人間に対する怒りさえ感じたのね。この国を想い、世界を想い、先人たちの知恵を学び、子供たちの遠い未来を想うその気持ちを持たず、生まれては消えゆく水の泡のような人の心を見ているとね、もっと人間らしい人間と、もっと大きな愛や生き方について説きたくなるんですよね。 連絡をしても返信のないような、無礼な人はいくらそれが現代の流行だろうとなんだろうと関係ありませんね。いらしていただかなくて構いませんから。


夢千代 

2013年5月7日火曜日

たんぽぽ





こんなに高いたんぽぽがある、って、知らなかったのね。
 これもどこかから、風に乗ってやってきたのでしょう。


 家のまわりをふらっと散歩していた時にね、彼の兄弟を見つけたの。
あぁ、やっぱりあるんだなって。
背の高いやつも。


 本当は…、知っていたのかも知れないね。
かつて、見ていたかも知れない。


でもね、この年になって、初めて気が付かされることって…、あるよね。


この場所は、植物たちにとって快適な場所。
温かで、ちょうど良い日の光が、彼らを元気にしてくれる。


この高いたんぽぽも、「Max」かと思われた予想をはるかに超えて、
わくわくしてくるくらい、ここまで伸びてくれた。
  

上にばかり伸びることをおぼえて、
下がおぼつかない、軽い鉢植えだということを、彼は忘れているから、
よく、ひっくり返っていて、何度僕が起こしてあげたことだろう。



---その日は、めずらしくひっくり返ってなかった日だったの。
神棚の水を替えようと、ベランダの戸を開けたその刹那…

ばぁーっと風が吹いて、まるで解き放たれた白い風船のように、綿毛が飛んだのね。
僕は、もう綿毛が出来ていることも知らなかったから、びっくりしてしまって!


一度、たんぽぽから離れた綿毛は、もうここに戻ってくることはなくてね。
その時はまだ、綿毛同士かたまったままで、そこらへんをふわふわしていたんだけれど、
これから彼らは旅立って行くんだな、と思ったら、なんだか感傷的になってね。


みんなに見せた背の高いほうのこの写真も、すでに何日か前のものだけれども、
ついさっき見てみたら、
まだ少しだけお花が咲いていて、
強くてたくましくて元気で、

そいで相変わらず、ごろんとひっくり返っていたんだよ。


夢千代


2013年4月27日土曜日

11年ぶり海外訪問を決意させたオランダ新王妃からの直電


                                      
 長い療養生活を送る雅子さまに久々の海外公務を決意させたのは、一本の国際電話だった。
「電話の主は、オランダのマキシマ妃でした。まもなく新国王に即位するアレキサンダー皇太子の妃です。マキシマ妃は『ぜひ4月30日の即位式においでいただきたい』と直接、雅子さまにお話しされたようです」(宮内庁関係者)
 その言葉に背中を押され、11年ぶりの海外公務が実現したのだ。雅子さまは2006年8月、オランダ王室の招きで、皇太子さま、愛子さまと一緒にアペルドールンの離宮などで2週間、ご静養をされた経緯がある。
「『そのときの感謝をお伝えしたい』と雅子さまはおっしゃり、当時も同行した主治医の大野裕医師(精神科)に相談されたそうです。4月17日頃になってOKが出て、皇太子さまが電話で小町恭士東宮大夫に伝えたそうですが、そのお声は弾んでいたそうです」(同前)
                                             〈週刊朝日〉
                                                  4月24日(水)16時5分配信

 このニュースを知った時、「とても素敵なお話しだな」と思いました。

 雅子様の前回の海外公務は、愛子さまがお生まれになった1年後の2002年12月であったということですが、最近も何かと話題にのぼる皇室のお世継ぎの問題ですね。
 ハーバード大卒の帰国子女で、元外交官であられる雅子妃殿下に、お世継ぎを最優先させる皇室という環境は、「酷」でこそあったのではないかと私達は思うのです。

 紀子さまが悠仁さまを出産されるまで、雅子さまが軽井沢にある小和田家の別荘にひきこもってしまわれた時期もあったとのこと。

 実のお母上と愛子さま、雅子さまの3人が別荘で過ごされ、思いつめた様子の皇太子さまが訪ねてくるといった状況であったそうです。

 私は、「人の幸せとはなにか」ということをあらためて思います。
 特に、こういった女性性や男性性のジェンダー(性的役割)については、深く疑問を感じるところです。


 しかしながら、皇室といういわゆる特殊な世界について、いわゆる一般論が通用しないことも、存じ上げております。
 美智子妃殿下など、皇室外の世界からはじめて嫁がれて、それでも様々な形式(乳母を使わず自分の手でお子様を育てるなど)を変えられたようですが、まだまだ…と申し上げるよりも、不変であることを良しとする神道に基づいた世界ゆえ、安易に「こうすれば良い」などと言及することが出来ないのが、そもそも皇室というものであるのです。

 皇太子ご夫妻のご結婚が決まる際、皇太子殿下が雅子様に「私が全力でお守り致します」というあのプロポーズのお言葉が、それまで頑なに皇室入りを阻んでおられた雅子様の御心を一転させたことを思えば、今後の雅子様の心の問題(雅子様のそれまでのキャリアを活かせるようなお仕事への刷新等)や、第一子の皇太子妃にのみ、お世継ぎのご負担へのウェイトが掛からぬようなご配慮を皇室の様々な取り決めをされる皆様一丸となって、早急にこの問題に着手していただきたいと願うのは、私だけではないことと思います。

 このように書くと、『女性天皇』についての議題が上がると思いますが、これについては意外に思われるかも知れませんが、私はNGなのです。
 これは女性天皇様一代の問題ではなく、後の世につながっていく、いわゆるDNAの問題です。
 詳しくは割愛しますが、男性性と女性性の明らかな違いというのは、染色体の問題に他なりません。

 最近は、子供たちの本の中にもジェンダーによる差別を撤廃するような表記が書かれていますし、近年は、神社の宮司様にも女性宮司が増えていらっしゃいましたが、とても良い傾向と捉える反面、このことだけは、どうしても簡単に首を縦に振るわけには参りません。人間が考え出した性差による差別と、神が与えたもうたどうしても成さなければならない性的役割を、混同してはなりません。(このことについては、いずれ詳しくお話しするつもりです)

 女性にしかできない事、男性にしかできない事、女性にも男性にもできる事、男性にも女性にもできる事、男性でなければならない事、女性でなければならない事…
 だからこそ、雅子様御一人に精神的ご負担を掛けることを、私は「どうして?」と思う訳です。
 難しい問題だからこそ、みんなで考えて雅子様の人生を活かせるような皇室にして欲しいと私は思う訳です。


 …話しが思いがけない方向にいってしまいましたが、
 オランダには現在、雅子さまがもっとも頼りにしているご両親が暮らしていらっしゃるとのこと。

お父上の小和田恒元外務事務次官は現在、同国ハーグにある国際司法裁判所の判事を務めていらっしゃるそうです。
 雅子様にとって、このオランダご訪問が、ご自身の人生の意義を見出す第一歩となっていただけたら嬉しく思います。

夢千代
                                           写真提供:The favorite world
                             

2013年3月30日土曜日

「純と愛」最終回

純と愛。

 
朝の連続テレビ小説、今日が最終回でしたね。

 私が観たのは、途中からでしたが(純がホテルオオサキに入った辺り)それ以降、出来るだけ欠かさずに観るようにしていました。

 実に『爽快』でした。 
 よくぞやってくれた!と思いました。

 90年頃から、大人たちのあいだにテレビ離れが進んだのも、視聴者に迎合し、欲望ばかりを増幅させるような、人として大切なものを欠いた皮膜的な番組が横行していたからではないか、と私は思います。

 「人として大切なものとはなにか?」 
 「生きることに本当に必要なものはなにか?」

 それを、教えてくれたもの、その解答こそが、「純」と「愛」だったように私は思います。


 そんな折、事件は、番組開始当初から始まりました。
 主人公「夏菜」さんへの酷評。脚本家への“不満”。
 「朝からうるさい」「朝ドラらしくない」

 
 先日、夏菜さんの出ていたNHKの別の番組で、彼女は「夏菜」でいることよりも長く、「純」としてこの時間を過ごしてきた心情を明かしてくれました。それは、劇中の「純」がまるで役柄そのままに登場したかのごとく、苦悩と必死の半年間であったことを語ってくれました。

 そもそも、私が、なぜこの番組を見始めたかと言うと、それは私の妻が「ねぇ、なんか私たちにそっくりなドラマがやっているよ」と言って一緒に見始めたのが、きっかけです。
 いつもこの番組が始まる時間になると、二人でテレビの前に座って15分間、一緒にいるのが日課となりました。 

 何があっても、プラス思考。人を疑うことを知らず、自分のでっかい夢に正直で、まっすぐで、傷つきやすくって、それでも絶対にへこたれない「純」。 人の心を読めてしまうがゆえに、激しく傷つくことさえ超えた怒りを生じ、体や精神の無理だけはあまりできないものの、知識も、才能も、人を説得出来る優しさも、根性も細やかな女性のような気遣いも、みんな持ち合わせていながら、生きることの希望を失っていた「愛」。

 この二人は、私たちふたりの姿に、あまりにも良く似ていました。

 ドラマが進むにつれ、その登場人物さえも、いま、私たちが抱えている環境に酷似していましたし、二人の放つセリフを聞いた私たちが、何度胸の琴線に触れられ、考えされられたり、涙を流したことでしょう。
 おじいのホテルがばりばりと破壊される音を聞きながら、私は同じようにある建物のことを想いながら、切迫した想いで不安を払拭しようと、祈り続けたことでしょう。
 
 よくある「世間」や、「偉人伝」ではない、はちゃめちゃで、わかりづらくって、それでも一生懸命な。
 どこにでもいる代わりに、すべて用意され、周囲にお膳立てされながら、きれいに着飾った中でピエロを演じるからくり人形とは違って、昔見た、スポコン(スポーツ根性)もののような。
 まどろっこしくても、這い上がって這い上がって、本物をつかんでいくという、忍耐と努力の人の、私にいちばん馴染みのある庶民のね、王道のようなドラマ(当時、見たことはありませんでしたが、「愛と誠」も、たぶんそうなんでしょうね)。

 もしかしたら、今はまだお若い「夏菜」ちゃん自身さえも、理解に苦しむような、作りあげられてしまった実世界の『現代』人からは、遠い昔になってしまった本当の『常識』こそを、脚本家は描きたかったのかも知れない、そう思ったんですね。
 
 演じている夏菜さん自身が苦しみ、視聴者が番組を見て「怒り」さえおぼえてしまうという、このお話し。
 今日の「純と愛」の感想レビューを見ても、“すごく面白かった”か“とてもつまらなかった”の両者に、意見がまっぷたつに割れてしまうような、極端なこのお話し。

 ふだんは、良い人・悪い人の区別をほとんど出来なくなってしまった私が、あえて言わせていただくのであれば、あぁこれは、これをつまらないと批判する現代の認識力、読解力、また耐え忍ぶ力、お金や物質以外の存在のみを「信じる力」、そんな『実社会に生きる私たち人間こそ』が、“とてもつまらない人間”に成り下がってしまったのだな、という感想を持ちました。
 夏菜さん自身に対して申し上げれば、当初はこの役を演じる意味さえも、見失っていたことと思いましたが、私はこのキャスティングをされた方は、実に正しい判断をされたと、自信を持って言うことが出来ます。
 
 『出る杭を打つ』風潮のある、近年の「つまらない良識」なるものに、傷つき、自信をなくされて来た方が、一人でも多くの人が、このドラマを見、「勇気」を見出し、生きることに「希望」を見出し、なんにでも果敢にチャレンジして、見えざる「世間」や「運命」に負けず、正々堂々と「生きられる」ことを強く希望します。
 最後に、純の“おじい”や“お母ちゃん”が純にいつも言っていた言葉を、ここに書いて終わりにしましょう。

     <『純』あなたは、そのままで(生きていて)、いいんだよ>


夢千代

2013年3月23日土曜日

春満開!


思いがけない「桜満開」のテレビのニュースに、外に出てみると、そこには見事な春真っ盛りの光景が映し出されていました。

ここは平坂にある児童図書館の前の桜。
ベンチで微笑みながら語っていた三人の男性は、全員が異国の人たち。

山の上から街を見下ろせば、元気のなかった人々も、一気に心が広がっていくように感じられ、あらためて春の訪れに感謝を致します。



春になったらやってみたいこと、っていっぱいあって、

懐石料理を食べてみたかったり、
中国茶を飲んでみたかったり、
和菓子を食べてみたくなったり、
旅に出ていい景色を見てみたいし、
いい音楽を聴いて、心を憂いを溶かして、あたたかな気持ちに包まれてみたい。



そんな自分の願いを少しでも叶えてあげたいと、ささやかな春の宴を満喫致しました。


『ダッタン人の踊り』は、ロシアの作曲家アレクサンドル・ボロディンが作曲したオペラ『イーゴリ公』の第2幕に出て来る曲です。

皆さんも素敵な春をお楽しみください。


 





2013年3月11日月曜日

フクシマ復興支援フォーラム『いまホン!』


こんばんは。夢千代です。

明日は、3.11から二年。

横須賀という場所は、被災地から、距離的には離れているものの、
それでも、長い、月日だったな、と、そう思います。

日本人にとって、決して忘れられない日を控えた今日、横須賀ダイエーショッパーズプラザにおいて、「今ホンステージ」という催しものを観てきました。

 『いまホン!Second』
~フクシマ復興支援フォーラム&観光と物産展~

○場所. 2Fセンタープラザステージ
○13時から17時
私が到着したのは、プログラムも終わりに近づいた頃。

クラシックピアニストの小泉耕平さんと、またシンガーソングライターであり、横須賀のFM放送のパーソナリティでいらっしゃいます鈴木初音さんのコラボライブがありました。

お二人は、初めての共演ということで、どんなコンサートになるのだろうと楽しみにしておりました。



小泉さんは、大きなホールで大勢のお客様を前にして、リサイタルをされる方ですから、デパートの中での演奏というものに、抵抗はないのかなと思いましたが、10代のころのバンド経験など意外なお話しをお聞きして、驚いたのですが、いざその演奏が始まると、一気に周囲の空気が変わるのがわかったんですね。
周囲は、カートを回収するカラカラという音や、家族連れでにぎわう子供たちの声や、店員の方たちの呼び声や、各テナントに流れる音楽などで、雑然としていましたが、ちょうど、そうですね、このステージの周囲がいちばん上の多角錐に向かって煙突のように広がっていて、彼のピアノが響き渡るちょうどその位置にだけ、僕にはお花が舞い上がったように見えたのですね。

彼は、ラフマニノフの曲を一曲弾き、そして鈴木初音さんの歌うポップスの歌の伴奏も何曲か行いましたが、明らかに!普通の伴奏者のピアノとタッチが違いました。あれは、ほんとうに驚きました。とてもいい体験をしました。…恐れいりました<(_ _)>


鈴木初音さんは、ご自身で作詞作曲された歌を、何曲か披露してくださったのですが、何度も被災地を往復して、支援物質を運んだり、またご自身のライブを当地で行ったりしたお話しを聞いて、すごいなぁと思いました。
そのお話の中には、同じように救済活動をする人たちのことを、売名行為だとか、そういう見方しかできない方がいたこと、また実際そのように言われたこともあると言って、驚きました。

実際に、当地で歌われた、過去にも何度かお聴きしたことがあった曲、はじめての曲ありましたが、歌の持つ力ってすごいなと思いました。

最後に「ありがとう」という曲を歌っていただいたのですが、言霊の持つ力って重ねてすごいなと思いました。



初音さんは「有名なアーティストならば、一度にたくさんの人たち、たくさんのお金を動かす力があると思います。私にできることはそれに比べて、ほんの小さなこと。でも、それでも、私にできることはいつも何かを考えて、思ったらそれを実行していきたい。それで、ほんの少しでもいい。困っていた人の笑顔を見ることが出来たら、それでいい」そんなことをおっしゃっていましたね。

僕は、このプログラムの最後に出演されたお二人のライブを聴いて、なんだかとても感化されてしまいました。
(いま自分はいったい何をやっているんだろう)という危惧感です。



あ、いま3月11日になりました。

この1日が、皆さんにとって平和で安全で、幸福な1日でありますように。
そして、亡くなられた方も、いま生きている人たちも、やさしい気持ちで過ごせますように。

夢千代





2013年3月4日月曜日

河野鉄平×宮川久美Duo Recital


 
バス歌手の河野鉄平さんと、うちの久美さんのコンサートを観てきました。

 紀尾井町サロンホールで行われたコンサートは、おかげさまで盛況のうちに無事終わりました。

 遠いところまで、御足をお運びいただいた皆様、本当にありがとうございました。


 最近、私自身、久美さんのコンサートに行って聴ける機会が、とても少なくなっています。
 これは、とても残念なことで、彼女の人生に寄り添いながら、その人生の半分を、僕は知らないことになります。


 実は、河野鉄平さんとお会いするのは、今回が二度目でした。

 先日の打ち合わせの時に、ほんの少しお話しする機会がありましたが、その時の彼の第一印象は、とても元気で、誠実な人だという感想を持ちました。

 鉄平さんと久美さんは、2012年2月に行われたグァムでのコンサートで、大成功を収められており、その時、僕も同行するはずだったのですが、体調がとても悪く、また異国の地でかえって足手まといになるのも心配でしたから、私は現地のTV局でのインタビューの様子などが上げられたyoutubeでのコンサートの様子を観ることでしか、当時の様子を実際に伺うことは出来なかったのですね。
 

 河野鉄平さんは、1978年生まれ。11歳の時からご両親とともに、海外での生活を続けて来られました。オハイオ州クリーブランドにある大学と大学院で声楽を学ばれた後、アメリカやシンガポールにてプロの声楽家として活躍されてきました。
 昨年12月には、第22回日本クラシック音楽コンクールにて一般男性の部で最高賞を受賞。
 これから、より一層のご活躍が期待されるなかの、今回のコンサートでした。

 今回、オペラ仕立ての三幕構成で、歌曲あり、ミュージカルポップスあり、オペラのアリアありで、非常にバラエティの富んだプログラムとなっており、正味二時間半という、そのボリューム(オペラの全幕よりも長かったのそうです!次回は、「ちょっと考える」とも、おっしゃってましたけど。。)にも驚きましたが、実際はそれほどの時間が経ったことすら思わせなかった喜びの連続でしたので、いらしたお客様もきっと、皆さん心から満足されて帰られたことと思っております。


 私は、先ほども申しましたように、河野鉄平さんのコンサートを拝聴するのははじめてです。
 彼の『声』でしたら、そのようなわけで一年前から存じておりましたが、実際のステージで(なんと私は最前列でした)感じたことが多々ございます。

 ただ、上手いとか、良かったとかいう感想は、プロの方に対しては、あまり申し上げても意味のないことと思います。それでも上手い、歌い手さん、というよりは、彼には「プレイヤー」という言葉が似合います。歌はもちろんのこと、オペラの作品のなかで演じる役についても上手でした、何よりも華があります。

 始終繰り出される、彼のユーモアは、彼のぶれない誠実な人柄のせいか、それが決して嫌味に感じず、またクラシック音楽の愛好家を前にしてもそれが品を欠くようにはならず、かえってそれが好感を持てるといった、若さと張りと、そして彼の優しさをとても感じる舞台でしたね。



 初対面の時に、鉄平さんに
「ビデオを見て、怖い人かと思いました」と言ったら、
笑っていらっしゃいましたけれど、彼のステージには、人を魅了し、圧倒するだけの、勢いと力があります。
 それは、彼が天から授かったその恵まれた体格と、甘いマスクと、育った環境なんかもあるかと思いますけれど、それ以上にステージを観て初めて分かる、生まれ持っての資質というか、目には見えないある種の才能を、私は彼から感じました。



 私はいままで、何人かのクラシックの音楽家の方にお会いしました。

 それぞれのお人柄があり、技術があり、いままで生きて来られた哲学を持っていらっしゃいます。

 そんな彼らの舞台を見るときに、私はいつも彼らの放つ「音」から「映像」と「物語」を観ます。
 それは、なお自然界に存在するエレメントに要約され、ある人からは、水を感じ、またある人からは風を感じ、光や空や海を私は彼らのバイブレーションとともに密かに楽しむのですね。
 そういう見方をすると、中には、つらくなる時もあります。派手に演出された中、聴衆の歓喜とは裏腹に、プレイヤーの呻きや叫び声が絵となって見えてくることもあるからです。


 さて、今回、河野鉄平さんから感じたものは、そのいずれでもありませんでした。
 具体的な映像も、なぜかあまり見えては来ませんでした。
 (それは私が最前列で、緊張していたせいもあるかも知れません)
 
その代り、第二幕が始まった頃でした。
ふいに、なんだか懐かしい想いにとらわれたのです。

 私の感性が、もっともっと瑞々しかった頃、20代の頃に感じていたような想いが、急によみがえってきました。

(この気持ちはなんだろう…)

 そう思いながら、聴いていて、ミュージカルの「star」という曲になった時、私のあるものが飛び込んできました。

 それは、
 色でもない、形でもない、

 …愛だったんですね。

 英語で歌われたこの曲が、どんな意味の歌詞だったか、わかりませんが、私の目からは突然に涙があふれてきて、ハンカチをバックヤードに置いてきてしまったことを、えらく後悔しました。
 今までクラシックを聴いていて、こんなにストレートで、こんなにピュアなバイブレーションを私は聴いたことがありませんでした。
 いえ、今まで聴いてきた皆さんだって、素晴らしいのです。(現に、鉄平さんのお父様の口からは、鉄平さんの先生に匹敵するような、さらなる技術の向上をおっしゃられていました)

 しかし、(音楽というのは、本当に理屈ではないんだな)、と。このとき、私はあらためて学びました。

 舞台上でお話ししていた、鉄平さんご自身のお話しによれば、今回の曲のチョイスは、「思い出の有る曲・思い入れの有る曲」ということで、彼が高校・音大時代、レッスンを始めた頃に歌っていた曲を多く選曲したということで、そのような『初心忘れるべからず』といった彼の想いがそのまま飛び込んできてしまったかも知れません。

 他の芸術家の方もそうですが、音楽家の方が音楽で身を立てていくことは、この時代この国にあっても、本当にむずかしい事かも知れません。
 商業の中に流れる過程で、才能が削り取られていったりするお話しも、聞いたりします。
 自らの自信と才能におぼれて、道を見失ってしまう方もおられるようです。
 それでも私は、鉄平さんのいまの歌声を、5年後も10年後も聴いてみたい、心からそう思えました。

 本当の音楽というものがなんなのか、私も久美さんからたくさん学びましたが、「有名だから」ではありません。メディアに出ているからでもありません。そして、本物の生きた音楽は、CDやDVDでは、聴くことができません。
 
 プレイヤーが心血注いで、「いまを生きる」姿は、このステージという場所以外にありえないのだなといま、私は思います。本物の芸術が「いまを生きる」姿に、未来の不安や、打算的な思いなど入る余地はありません。
 もっともっと、多くの人たちに本物の音楽の良さを知っていただきたいと、あらためて思えた最高に良き時間となりました。 感謝!

夢千代 

 

2013年2月26日火曜日

忘れられぬ悲しみ















大切な人を失った悲しみ。

特に、死という事実が愛する二人を分かつ時、残された者の悲しみは、否、残しつつ去って行かなければならない者の悲しみも、また、切ないものであろう。

先ほど見たTVで、ラモス・ルイのお話をはじめて知りました。

彼は、一年半前に最愛の奥様を亡くしておられるのですが、彼女を死に追いやったのが、癌。それも肝臓に集中して転移を為す、最も重い病名のひとつ。

医者から宣告された余命は、ひと月たらず。
そして、夫妻がその後実際に過ごした時間は、わずか10日ばかり…


奥様は、それまで病気という病気もしたことがなく、健康そのものだったそうで、あまりにも突然に告げられた残酷すぎる死の告知は、彼を絶望の淵へと追い込んでしまったのだそうです。

いちばん迷ったことが、奥様に病名を告げるかどうかということ。

ラモスが下した決断は、本人にもそして子供たちにも一切明かさないということでした。
それは…(こんなに苦しんでいるのに、どうしてそれ以上苦しませなきゃならないの!)ということでした。

奥様と過ごす病室での最期は、始終笑顔で過ごしたそうです。
それはかつて、ラモスが足の複雑骨折をした時に、再起不能かという絶望の淵から、奥様の献身的な笑顔によって救われたという恩に報いるべく、彼もそうしたかったということ。

番組の内容は、それほどまでに強いきずなで結ばれたお二人であったからこそ、1年半経っても乗り越えられないラモスの深い悲しみをケアするというものでした。


近年、何人もの芸能人の深い心の傷を癒してきた、心理カウンセラーの先生が、彼と向き合うと、彼が言った言葉は、
「僕は、乗り越えようとは思わない。どうして乗り越えなきゃいけないんだ。よくみんな、元気だせよとか、もう前を向いて歩き出せよとか言うけれど、なんでそんなことしなきゃいけないんだ。そう言っている人は、『愛してる』ってそれだけなの?僕は違う。彼女のことを愛しているから、彼女のことを決して忘れないし、絶対に再婚しない。僕は、今でも彼女が好きだし、僕が死んだら絶対におんなじお墓に入るんだ。絶対に忘れはしない!」って。

僕は、ラモスという人をあまりよく知らなかったけれど、なんて人間味のある人なんだと思った。現代の人はすぐに、プラス思考だとか、頑張ることとか、泣き言を言わないとか、そんなふうに教育、そう思うことが良いという風潮がまかりとおっているから、僕は嫌だね。ラモスのが、まともだ。そうでなければならない。ダメだったら次とかね、決してそうはならない。まぁ、僕みたいのがめそめそしていたら、周りは目くじら立てて、女々しいとか言うのかもしれないけれど、ラモスがこれだけ愛に、命に苦しんだ事実を知れば、大切な人のことをいつまでも思い続ける気持ちのことを、決してバカになど出来ないでしょう。

先ほどのカウンセラーの先生が言われたことも、「そうなんです。ラモスさんが先に言われたから僕は驚いてしまったけれど、無理に忘れよう、前に進もうという言葉は、かえって本人を苦しめるんです。だから僕は、ラモスさんに今日、無理に忘れようとなんてしないでくださいというたった一言を言いに来ました。今日こうしてラモスさんの言葉が伝えられることで、何が大切なことなのか多くの人が学ぶことでしょう」とおっしゃっておられました。

私は、永遠の愛を信じます。

それこそが、この世の真理。
それこそが、唯一、この世で絶対に正しいことです。


夢千代

2013年1月25日金曜日

道に迷った時



















テレビにて。

盲目の少女が、以前先生に連れられながら歩いた道を使って、一人でお使いに行きました。

少女は不安で泣きたくなりましたが、その時先生が言った言葉を思い出しました。

「迷ったら、そのまま進まず、迷う前のところまで戻って、そこからまた歩き始めること」

少女はその教えを歩いているうちに思い出したようです。

彼女は、お母さんに食べてもらおうとマクドナルドで買ったアップルパイを、無事帰宅してお母さんに渡すことが出来ました。

そして、お母さんにとても喜んでもらうことが出来ました。少女も初めての体験に、とても自信を持つことが出来ました。


夢千代

2013年1月4日金曜日

季節を徹底して楽しむ


「こたつの中で食べたいもの」のアンケートでいちばんだったのは、そう、誰もが思うであろう「みかん」が正解でした。

しかし、二番だった答えは意外なものでした。
それは、「アイスクリーム」が正解。

以前、私もレストランで働いていたことがあって、その時確かに、
「寒い時にあたたかいところで、冷たいものを食べるのが最高のぜいたく」などと教えられました。
「暑い時に涼しいところで、あたたかいものを食べるのも最高の贅沢」と。

ところが、私は日本の四季について懸念していることがあります。


それは、春夏秋冬の春と秋が消えつつあること。


欧米諸国のように、
「はっきりする」ことを良しとする風習がまかり通って、
奥ゆかしい日本のわびさびの世界が、なぜかどこかへ行ってしまいました。

でも、はっきりすることが美徳であるならば、現に存在している“いま”を楽しむことがもっとも、理に叶った美徳であると思うのですが、いかがでしょうか?

寒いから、それを避けるでなく、その寒さと共に生きていく。
暑いから、それを避けるでなく、その暑さこそを楽しめるような生き方を考える。

それがすなわち、文化であり、人類の知恵だと私は思うのです。

以前、私は沖縄の太鼓にはまっていた時期がありましたが、
現在は津軽の三味線にはまっております。

今回ご紹介する三人は、若い女性のドュオと初老の男性という異色のトリオですが、
実は、師弟というわけではなく、なんと三人ともそれぞれ三味線日本一になったことのある腕前の持ち主。


私は私らしく、
今あるままに、今らしく、
自らここに住むがゆえに、ここらしく生きていく。
私は、そんな生き方を、いつまでも夢見、そして、伝え続けて参ります。


(向かって右側にあるBirthの停止ボタンをクリックして、
        現在流れている音楽を一度止めてから、動画をご覧ください。)



輝&輝
2008年に白藤ひかり、武田佳泉のふたりによって結成された本格派津軽三味線デュオ。それぞれが全国大会で日本一になった経験を持つ。
現在、関東地方を中心に全国的に活動を行っている。  ホームページより

福士豊秋
1999(平成11)年
ドラマ「すずらん」に盲目の三味線弾き万吉役で出演。津軽三味線全国大会(弘前市)団体の部優勝。
2004年(平成16年) 津軽三味線全日本金木大会(金木町)団体の部優勝。
2007年(平成19年) 5月3日「青森市津軽三味線日本一決定戦」初代チャンピオンになる。同大会にて団体の部優勝。                      ホームページより 

2013年1月3日木曜日

あるがままに生きる


あけましておめでとうございます。
素敵な初夢、見られましたか?

今年で11年目になるそうなのですが、元旦に放送された明石屋さんまさんと、木村拓哉さんの番組のなかで、
さんまさんが面白いエピソードを言ってらしたので、ご紹介したいと思います。
さんまさんが、あるTV番組を観たんですって。
(この番組が放送される前日…ということですから、「大晦日」のことでしょうか?)

「海の生き物の生態について」

くじらとシャチと言えば、海の上で激しい生存競争が繰り広げられる両者の関係。
シャチは、あの大きなくじらを集団で倒し、また容赦なく、力の弱い子クジラさえその標的となります。

鯨(くじら)と聞けば、さも強そうに思えますが、実際にクジラが食べるのは、小さなオキアミ。
それでも「肉食」ではあるものの、シャチの獰猛(どうもう)さに比べれば、なんだか可愛くさえ思えてくるからおかしなものです。

それでね、さんまさんが言ってらしたことは、そういう動物の生態を観ていて、
年齢によって、その興味の対象が違ってくるっていうのですね。
若いころは、あぁ俺はシャチやと。
弱肉強食。あんな大きなクジラを、倒した。俺は海のシャチや。すごいで、と。
そう思っていたかと思うと、今度は結婚して子供でも生まれた時には、
あのくじらが、シャチの攻撃から、身を挺(てい)して子クジラを守っている姿に涙すると。
すごいなぁ。可愛そうやなぁ。親って偉大なものやなぁって。
ところが、今回、何に意識がいったかというと…
あのオキアミだって言うのね。
「たった三秒やで。ゆらゆらとあんなにたくさん泳いでいたかと思えば、ざぶーんと、クジラに一瞬で飲み込まれる。
あのオキアミの人生はなんだったんや!」って。

同じものを見ても、見ている自分のほうが変化するというね。。
実に興味深いエピソードでした。


yumechiyo