毎日、自分が水を与える役目を請け負うことで、花を愛でる気持ちが自然と湧いてくる。
この大輪の白菊の花々も、それに応えるように、いつまでも美しく咲き誇っている。
もの言わぬ花たちは、人を疑うことを知らない。
人を陥れることもないし、人の心を傷つけ、自分勝手な意見をすることもない。
私がもし花たちに水をやらなければ、彼らはただ時間を経て枯れていくだけだ。
今でも少しづつ枯れ始めてはいるけれど、私の目には見えない中のほうを枯らすばかりで、命ある限り、彼女たちはただただ懸命に、行きつづけようとする。
あいだみつをさんの書に、『無為不待』と書かれた一編の詩があったことを思い出す。
無為不待とは、仏教の言葉で、「誰の目にもとまらず、誰にも知られることなく、ひっそりと咲いて、ひっそりと一人死んでいく、崖の途中に咲いているような花のことを意味する」のだということをその詩によってはじめて知った。
この大輪の白菊の花々も、私が水をやることがなければ、きっと誰も世話をするものがなく、それでも命のあらん限り咲き続けて、やがて枯れていくのだろうなと思ったとき、花の、儚くも強く美しい生きざまを感じ、またいっそう愛でる存在となるのである。
…人はなぜこのように生きられないのであろう
人はなぜ、美しく咲いている花を、わざわざ手折って、自分のものにしてその花の寿命を縮めることをするのだろう。
誰のために生きるのでもない
誰かに愛されることを望むこともない
いっそ、そのような心を持てたら、いいのに。。
夢千代
写真 淀屋橋心理療法センター
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