2013年9月9日月曜日

いま、想うこと

 
いまだから話せることって、あってね。

 僕のこの二年半というのは、巨大な嵐の中に置かれた一艘の小舟のようでいて、必死で縁をつかまりながら、振り落とされないようにしているのがやっとだった。どんな言い分も、言い訳も通用せず、突然表れた魔人たちが目を見開きながら、大口を開けてにやにやと笑うような箇所を幾つも通過してきたように想います。

  占いの個人鑑定を辞めた頃、やはり辞めるには辞める理由というものがあってね、占い師はただ事象を当てれば良いということではなくって、その人の時にはお父さんやお兄さん代わりになって、親身に話を聞いてあげることが、少なくありませんでした。 

  ところが、その人から発せられる愚痴や言い訳や、不安や心配などは、皆さんが想っている以上に、聞くものの健康を蝕んでゆきます。

 いまはとてもじゃないけれど、そんな愚痴の温床になるようなことは出来なくてね、元々僕は占い師という称号が、どうしても好きになれなくて、それはなぜだかというと、師匠から占い師になるな魂の救済者たれと教えを受けたからでね、自分はずっと魂の救済者だと想って、鑑定を続けさせていただいたんです。現在はあの時の自分のような占い師は、ううん、これからもきっと現れないでしょうね。

  それでも、いつも、いつでも、僕と皆さんのあいだには、越えられない壁のようなものがありました。こちらがこんなにも適切な、この方を表すキーワードを伝えることが出来たと想っても、その本人が真の自分を見ようとしていないから、ぽかんとしていることもあったりしてね。 
自動販売機に100円入れて、自分の好きなジュースのボタンを押したら、それがポンとその場で出てくる。そんなのが好きだったら、神社に行っておみくじでもひいていればいいのにね。

 皆さんにお送りした、個人鑑定終了のメッセージ。そして、紫微垣開設のお知らせ。

 僕は、占いはあくまでも方便。占いという運命学の世界の入り口を通じて、人の生き方、命の大切さというのを説き続けてきたつもりだったのだけれど…、そう、おいでになる皆さんも、私の話を聞くのが好きだとおっしゃっていたから、紫微垣の開設にいたったのだけれど、いざふたを開けてみたら、今まではあれだけ頻繁に連絡のあった方々から、見事にぷいっと連絡が来なくなりましたね。

  まさに、占いの切れ目は縁の切れ目。

 悪いものをこちらに放るだけ放っておいて、では実際にあなた自身の器を大きくする学びを致しましょうとやったら、そんなことには興味ないのね。


 私の恩師の丸山先生など「自分は奴隷だよ」などと、生前お話しされていましたけれども、その頃は何をおっしゃっているか分かりませんでしたね。でもいまは、私がやっていたのは、まさに皆さんのゴミ箱だったのだと、そのように思っております。都合の良い時だけ来て、散々自分が悪くないとだけ言って欲しくって、感謝とかありがとうなんていう言葉は、その場の潤滑油みたいなものでね、本音は、都合の良いゴミ箱だったと。そのことを知った時、自分はかなり深い心の傷。
 人間というものが、いまはもうあまり信頼出来ないし、限界を知ってしまっているから、あまり好きではないですね。  
 
 私には、元々霊感があって、二年前に占いの個人鑑定を辞めた直後、たくさんの皆さんにお知らせしたはずの紫微垣のお問い合わせがほとんどないことに、とても寂しい想いをして、神様にお伺いを立てたことがあるんです。
 その答えは、ビジョンで見せていただいたのですけれど、砂糖に群がる蟻の大群だったのですね。(そうか、お客様は「占い」という甘い餌をもらいに来た蟻だったのか)とそうしてはじめて納得したんです。

  私から皆さんに連絡しなかったのは、ある一人の女性のお客様が原因で、一斉メールってありますよね。それをたまたま、その方のアドレスも伺っていたので、お知らせしたら「一斉ってなんですか!私のアドレスが他の人に知られてしまう。これって犯罪じゃないですか!私のデータは残らずシュレッダー処分にして、私のアドレスは完全に消してください」っていう怒りのメールが届きまして、その方がどんな性格のどんなお客様だったか、私は忘れてしまったんですけれど、この方もたぶん、他の方と同様、しっかりと面倒見てアドバイスして差し上げたと思いますが、それにも関わらず、そのような態度を取られたことに強くショックを受けましてね、それで皆さんにもメール差し上げるのが怖くなってしまったんですね。ええ、もちろん一斉メールの常識くらい分かっていますよ。代表は自分のアドレスに送って、すべてのお客様にお出ししたメールは、すべてBCCでお送りさせていただきました。「わかりました。でもそういうことでしたら、もう二度と連絡してこないでください」という方も幾人かいらっしゃいましたし、「今までありがとうございました」というメールはあっても、「これからもよろしくお願いします」というメールはほとんどありませんでした。


 現、塾生番号一番の方は、違いました。
私があの長いメールをお送りして五分後に、「私のような者でも、紫微垣の入塾をご許可いただけますか?」とご返信いただきましたから、やはりこういったものは、ご縁だと思うのです。

  現塾生の方たちとも、何度も疎遠になろうとしましたが、そのたびに、ちょっとしたことが原因で、またいらしていただいたりして、きちんと残る方は残っています。

  中には、一度いらしていただいて、こちらも嬉しくてね。このままずっとご縁が続いていくかと思いきや、「家のことで…」「習い事が」「気に入らない人がいるから」って、本当にこちらががっかりするような理由で辞めていく人が何人もいたの。


 人の幸せのあり方っていうのはね。確かに、様々な形があるんだけれど、僕が占い鑑定を通じて見てきた人たちをトータルしてみると、ほとんどが自分さえ良ければいいというね、「我良し」の人がとても多いですね。それでいて、やたらに「不幸」になることを怖がっている。そのくせ、努力はしたくない。人からは何か言われたくない。自分の好きなようにやりたい。

 占い師から見れば(誰から見たってそうなのだけれど)、ほとんどが因果応報でね。蟻とキリギリスではないけれど、自分がその時にやらなかったから、いまこうなったんじゃないか。それを何十年分もの、怠惰な人生をご破算にして、たかだか30分か1時間の占いで、どうにかして欲しいって、これはあまりにも虫が良すぎる話しだなと思ったのね。

  僕の考える幸せと、お客さんの考える幸せは、違う、と思ったときに、もう自分が占いで伝えられることはないなって思ったのね。真剣に話を聞いているこちらが馬鹿みたいだし。僕が人を救いたいと思っていたのは、一人でも多くの社会に益する人に自信を取り戻して欲しいからであって、わがままな人を正当化するために自分の命を削っていたのではないのね。結局は、その人そのものの生き方が変わらなければ、本当の幸せなんてつかめるわけがない。本当の幸せとは、足る心、思いやり、そして感謝ですよね。感謝なきものに、幸福感なんてあるはずがない。
 餓鬼が良い例でしょ。


  自分は何のお役目があるのだろう。社会のためになにが出来るのだろう。
 占いは、あくまでも僕の伝えたいことの方便だった。その方便を続けていくには、数々の愚痴や悩みに耐えられる体力がない。もうゴミ箱にはなりたくない。これ以上続けたら、たぶん僕は半年も生きていないだろう。その代わり、世の中でいちばん必要で、現代の社会のなかで、いちばん欠落していると思われる、いちばん良い仕事をしているはずなのに、人が集まらない。人が去っていってしまう。自分はなんのために生きているのだろう。。

 そんな話しをうちの奥さんとしていた時に、彼女はこう応えました。

「わかるなぁ。私もね、小さい頃、自分がなんのためにピアノ弾いているかって、正直わからなかった。自分が本当にピアノ好きかっていうと、実はそうでもないんだよね。同じ年齢の子供たちと上手くコミュニケーションが出来ないから、自分はそのぶん他の子よりも少しはピアノが上手いと思えるから、だから自信を持つために、みんなから注目されるために、弾いていたような気がする」って。

 もっともそのあと、「でも、その後ピアノを続けていったら、私は本当にピアノが好きなんだって自覚したけれどね」とも言っていました。


 そうそう、僕が中学の時に聞いた担任の先生の話なんですけれど、すでに高校生になったかつての先生の教え子がいたんですって。女の子で、とても足が早くって、高校のインターハイの代表に選ばれたんだけれども、TVのインタビューを受けて、その子が信じられないことを言ったっていうんですね。「足が早いということで、今期待のホープ。皆さんがあなたのことを注目していますが、インタビューさせてください。あなたは、なんのために走っているのですか?」彼女はこう応えました。「私は、自分がどうして走っているのか分からない。自分が、走ることが特別に好きなわけでもないのに、来る日も来る日も走っていて、なんだか馬鹿みたいだ」って。


  20代の頃。僕はこんな詩を書いたことがあります。
「プロフェッショナルというのは、誰もが憧れる何かを極めたエキスパートだ。しかし、プロフェッショナルの嘆きというものは、すでに気がついた時には、それしか出来なくなっているという事実なのだ」と。
 本来ならば、僕も生活のために占い師をやっているのだろうか?
 個人鑑定を辞めた年、ある大手の会社から、ネットの番組のオファーをいただいたこともある。
 しかし、もはや人を助けたいというあの渇望したような欲求が、自分の中から沸いてこなくなってしまった。みんな無視するなら無視すれば良い。苦しい時の神頼みだけしておいて、必要なくなったら、まったく連絡もよこさない。

  以前、ある神社の白竜神の話をしたけれども、願いをかなえるだけかなえて、お礼もなく、神職の祈願もなく、ボロボロになって朽ちているあの龍体を見た時に、僕は、人間に対する怒りさえ感じたのね。この国を想い、世界を想い、先人たちの知恵を学び、子供たちの遠い未来を想うその気持ちを持たず、生まれては消えゆく水の泡のような人の心を見ているとね、もっと人間らしい人間と、もっと大きな愛や生き方について説きたくなるんですよね。 連絡をしても返信のないような、無礼な人はいくらそれが現代の流行だろうとなんだろうと関係ありませんね。いらしていただかなくて構いませんから。


夢千代 

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