2014年1月16日木曜日

憲法は生存権を保障している

なぜ経済大国・日本で「餓死者」が出るのか 「悲劇」を防ぐ手段はどこにある?

弁護士ドットコム 1月15日(水)11時26分配信

結局のところ、食うにも困るような「生活苦」に陥ったら、途方に暮れるしかないのか?
電気、ガス、水道が止められ、冷蔵庫にはマヨネーズなどの空容器のみ……。そんな大阪市の団地の一室で昨年11月中旬、31歳の女性の遺体が発見された。死因は餓死か衰弱死とみられ、死後1~2カ月経っていたという。

報道によると、この女性は約4年前に生活保護の相談で区役所を訪れたものの受給には至らず、最近は「お金がない」と親族に訴えていたという。経済大国といわれる日本だが、餓死や孤立死などの悲惨なニュースは絶えることがない。生活保護に対する風当たりは強まり、行政による窓口対応の問題点も指摘されている。

結局のところ、食うにも困るような「生活苦」に陥ったら、途方に暮れるしかないのか。今回のような悲劇を防ぐには、どうしたらいいのだろうか。貧困問題に取り組む戸舘圭之弁護士に聞いた。

●憲法は「生存権」を保障している

「誰でも、さまざまなきっかけで貧困状態に陥ります。貧困は自己責任ではありません」

戸舘弁護士はこのように切り出した。自己責任ではない、となれば、誰の責任になるのだろうか?

「日本国憲法25条1項は『すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』を保障しています。いわゆる『生存権』です。

これは、貧困は自己責任ではなく、国の政策の失敗の結果であることから、すべての人に対して『人間らしく生きる権利』すなわち『生存権』を国家が責任をもって保障するという規定です。

生活保護は、この憲法25条に基づく国の制度としてあるのです」

努力によって貧困を避けられたケースもあるのでは?

「生活保護は、生活に困っている人ならば誰でも、困窮に陥った原因を問うことなく無差別平等に利用できる制度です。したがって、生活に苦しくなり、毎日の食事にも困るような状態になれば、当然に生活保護を利用し、生活費や住宅費、医療費等の支給を受けることができます。

努力することはいいことですが、誰でも努力できるわけではありませんし、そもそも努力するためにも最低限の経済的な基盤は必要です。現に貧困状態にある人に努力などを要求して保護を拒絶することは、その人に不可能を強いることであり、『努力しない人間は死んでもかまわない』と言っているに等しいと思います」

●「生活保護制度を遠慮せずに利用しましょう」

そういう制度があるのに、現実には餓死や衰弱死が存在するのは、なぜなのだろうか?

「現実には、生活保護を申請しようと役所(福祉事務所)の窓口に行っても、『まだ若いから働きなさい』『親族に扶養してもらいなさい』『ホームレスは生活保護を受けられません』『住所がないからダメです』『他の制度を利用してください』などと告げられ、追い返されるケースが後を絶ちません。

しかし、こういった口実は、生活保護の申請を受け付けない理由にはなりません。このような役所の窓口対応は『水際作戦』と呼ばれ、明らかに違法なのです。

こうした問題は、生活保護に詳しい専門家に相談することにより、解決することが可能です。弁護士、司法書士による無料相談窓口としては首都圏生活保護支援法律家ネットワーク(http://www.seiho-law.info/)などがあります」

たとえば、周囲に裕福な親族がいる場合にも、生活保護は受けられるのだろうか?

「親族の援助、扶養を受けることも、生活保護を受けるための要件ではありません。

昨年、生活保護法が一部改正されましたが、憲法25条に基づく最低限度の生活を国の責任で無差別平等に保障するという基本的な考え方は全く変わっていません。

とにかく生活に困ったら、生活保護制度を遠慮せずに利用しましょう」

(弁護士ドットコム トピックス)

【取材協力弁護士】
戸舘 圭之(とだて・よしゆき)弁護士
民事事件、刑事事件、労働事件等に取り組みながら、ホームレス、生活保護などの貧困問題や追い出し屋対策などの住まいの問題にも取り組んでいる。
第二東京弁護士会、首都圏追い出し屋対策会議事務局長、ホームレス総合相談ネットワーク、青年法律家協会弁護士学者合同部会副議長、首都圏青年ユニオン顧問弁護団
事務所名:代々木総合法律事務所
事務所URL:http://www.yoyogi-law.gr.jp/
弁護士ドットコム トピックス編集部

                                            以上引用文終わり
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 働きたくても働けない人がいる。

 年間何万人もの人たちが、自ら命を絶つ理由の第一位は、健康上の理由だという。

 「自由」と「平等」たる間違った信念が、彼ら弱者を、死へと追い込む。

 犯罪者は、何も、片手に凶器を持つものとは限らない。

 
 心無い言葉ひとつ、

 愛のない無表情ひとつ


 彼らは至極当然の役割を果たしていると信じながら、人を絶望の淵へと追い込む。

 この国にも、違う人種が二種類存在しているようだ。

 
 善意の仮面を被った鬼の犠牲になってあげることなど、決してない。



夢千代

2014年1月4日土曜日

一月一日

 
日本のお正月を彷彿させるもののひとつに、フジテレビで放送されていた「新春かくし芸大会」がありました。

 何をもって、お正月らしかったのかといえば、良く知るいつものTVの顔である芸能人たちが、こぞって艶やかな和服姿に身を包み、いつものあの歌をみんなで歌う姿でした。

一月一日
1、
「年の始めの 例(ためし)とて 終(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに 祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ」
2、
「初日のひかり さしいでて 四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに比(たぐ)えつつ 仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ」

 新春かくし芸大会は、2010年のお正月までやっていたそうですから、若い方でも知っている方はたくさんいらっしゃることと思います。

 この一月一日(いちげついちじつ)(…と読むそうである。初めて知った)は、昨年60年に一度の遷宮が行われたことでも話題となった、出雲大社の第八十代の宮司であった千家尊福(せんげ・たかとみ)が作詞したものです。


 さて、昨年は、わが国に希望の光が差し始めた年です。

 いよいよ富士山が世界遺産に登録され、また東京オリンピックの招致が決定、12月にはわが国の和食が、世界無形文化遺産に登録されました。景気のほうも、アベノミクス効果で上向いてきました。

 老いも若きも、皆が何か自信を持てず、人目ばかりを気にして、窮屈な想いで生きなければならなくなったのは、いつの頃からでしょうか?

 私は、国民が自分たちの国であるこの日本のという国に、誇りを持ち、共通の喜びと認識を取り戻せるよう、もっと大らかに、もっと笑顔で生きれるよう、文化を継承していきたいと想っています。

 お正月になった瞬間、あの懐かしい(私はTVで観た)あの歌を高らかに歌いながら、この歌のことを調べていました。千家尊福宮司は、やはり昨年式年遷宮であった伊勢神宮と出雲大社を、共に生かしながら(長い間葛藤の歴史があったのです)この日本の礎を守っていきたいと、宣言された素晴らしい御方。

 TVで一月一日を歌っていた、芸能人たちも、私が子供の頃から良く知る(私はS45年生まれ)人たちばかりで構成されて、この歌の歌詞にふさわしく、嬉しい楽しみなお正月のひとコマでありました。

 ところが、そのままネットサーフィンをしていましたら、

唱歌「一月一日」は歌ってはいけません

という題名があった。何事かと想ったら、まぁ酷い…→


老人ホームでこの歌を歌っていたお年寄りの歌を辞めさせたとあります。
しかも、その理由が、歌詞に天皇が出ているからとか、いないとか。。

先輩方の思い出をなんと心得る!これは自由の侵害というやつではないのですか?

これは2007年の記事だから、当時30代とされるこの【事件】を起こした当人は、私と同世代とお見受けします。

この記事を書かれた、吉備野庵の管理人様は、昭和5年生まれ。1年半前から、更新されていないようだから、もしかしたら、すでにご存命ではないのかも知れない。。

そんな管理人様、第二次大戦中は、少年であり、今後はますます数少なくなる、戦争の実体験者。
その彼が、この事件に関してこのように述べられております。

このアタマでっかちの職員や施設長のような”観念”ではなく、骨の髄まで染み込んでいます。何しろ15年間、ことあるたびに歌って来たのです。
でも、その私すら、今、「君が代」や「一月一日」を聞いても、特別、深刻な危機感を感じることはありません。悪い思い出は60年前の天皇陛下の人間宣言で吹っ切れています。それによって妄執から自己解放も出来ています。後は「赦し」の問題。あの悪夢の時代の愚挙を赦し、新しい時代への戒めとする。私より高齢の先輩達はすべて心に残るわだかまりは解消しています」

私は、私の大好きな歌に泥を塗られたような気がして、さらに、自分たちの住む国をその国民が愚弄していると知って、非常に情けなく想いました。

管理人は、この歌の成り立ちを蕩々と述べ立てたとするこの者を「たぶん勉強家なのでしょう」と謙遜(管理人は元新聞記者である)されているが、いやいや…どうして。自分に都合の良い結果をもたらすために、都合の良い言葉を並べ立てて、何も知らぬ無垢な人たちを教化しようとしただけで、真実を無視し、人々に罪悪感を植え付け、自国の文化を消滅させようとする。売国奴。その職員の正体は、覇者であります。

天皇様という存在も、神道も、かつて軍によっていいように利用されて参りましたが、現在はその御身を象徴とされた現代も、そこにそうして在られることによって、平和が保たれているのだということを皆さん知っていてください。中心無き世は、分裂の世です。戦いの世です。

国無き世は、親なき世です。親なき世は、教育なき世です。指針なき世です。

私は、個々人の思想や学問のことにとやかく言うつもりはありませんが、このようにひねくれ、ひん曲がった、ドグマに凝り固まって人を攻撃するこの輩を、私は同族同世代として、非常に恥ずかしく想います。

夢千代




2013年12月18日水曜日

「執着」と「支配欲」


 昨日、私の奥さんの久美さんの2日間に渡るホームコンサートが終了しました。

 コンサートには、ある小学校の学校の先生方もお見えになったんですけれど、その時に現在の子供たちのことについてのお話しになりました。

 家には、私の両親や、母の友人など、私や久美さんの小さい頃の「子供たち」を良く知る大人たちがいました。
 大人たちが、こんな質問をしました



「先生、昔の子供たちと今の子供たちと、何か違うことはありますか?」


 その前に…、私も、パソコンを子供たちに教えるという仕事で、何件か小学校にお邪魔したことがあるんですけれど、私が感じたこの質問に対しての私の答えを申し上げておきます。

「子供たちも先生も、昔とさほど変わらない。子供は子供だし、先生は先生」です。



 さて、先生は、子供たちの現状をお話しくださいました。

「子供たちが朝ごはんを食べずに登校して、倒れてしまう子がいるので、校長先生がそういう子を呼んで、校長室でカップラーメンを食べさせてあげます」

「怪我をしている子がいたのでどうしたのか聞いたら、お母さんが「明日、学校に行って保健室で手当てしてもらいなさいって言われた」というので、保健の先生は、そういう子達を手当てすることに最近なれました」

 私たちの世代の感覚では、ちょっと信じがたいお話しだったのですね。

 これ以上の詳しいお話しについては、どこまでが守秘義務になるのか存じませんのでこれくらいにしておきますけれど、そこにいる全員が、これは子供ではなくて、親が変わってしまったんだな…という結論に至りました。


 「現代の親御さんは、皆、働いていて忙しい」と先生方は、言います。

 しかしながら、
 「親は、子供よりも、自分のやりたいことを優先しているのだ」と言います。

 そして、「子供は親のペット」ではないのだろうかと言います。


 私は、「親が子供なのだ」と言いましたら、先生方は「そのとおりです!」と言いました。


 小学生の親御さんと言ったら、ほとんどが私たちより下の年代でしょう。

 ところが!ただ、若いからというだけではない。私たちの親の世代の中にも、そういった、子供よりも、自分たちのやりたいことを優先するという人種が存在するのです。

 
 それが、悲しいかな、私たちの親世代の中にも、存在している…。
 2013年。私の今年一年は、思えばそういった人種たちとの戦いの連続でした。
 人として決して尊敬出来ない、惨めで哀れな大人たち。。

 次の世代、子供たちの未来。
 周囲の人たちの幸せ。

 ~そんなことはどうでもいい。
 ~お前なんか、どうだっていい。

↓何かとあると決まって彼らは、このキーワードを口にします↓

 「『私』にはそれを得る『権利』があるのだ!」

 
 …ようは『執着』ですね。『我執』『我欲』

 (自分の思い通りにしたい)


 自分の思い通りにしたら、今度はそれを拡大していきます。

 『支配欲』。『征服欲』

 

 「運」というものについて、長年多くのことを学んで来ましたけれど、運の正体は「心」ですね。心が豊かでなければ、一度得ても、どこかで破綻する。悪銭身につかず。猫に小判。豚に真珠。


 私は、世界なんか欲しくない。
 すでに世界のすべてのものは、与えられています。
 すべてのものは、神様のもの。神様のものは、私たちのもの
 そして、私たちは神様の子。お借りしていた、この世のすべてのものは、死んだら全部神様にお返しする

 世の中には、自分の知識をひけらかしたり、実力のあることを、これでもかと世間様に強引に認めさせようとする輩がいますが、私にはどうして彼らがそうやって背伸びをして、分不相応のものを手に入れたいと思うのか理解出来ません

 きっと、心が貧しいのです。

 仏教でいうところの、餓鬼
 そこから出ない限り、彼らは永遠に本当の幸せはつかめません。

 
 私や妻は、他所様の家庭ほど、収入こそ豊かではありませんが、背伸びをして無理に認められようなんてしたくはないと思いながら、お互いにずっとそうやって生きてきました。
 天から与えられた、生まれたまま、ありのままの心と体を使って、私たちの出来る限りのものを伝え残して、世間様からさらに学びを得、寿命が来たら「今までありがとう」と言って、死んでいく。

 それが、成功だろうが失敗だろうが、私たちにそんな物差しは必要ない。

 ただただ、つまらないことで心を痛めて、自分の人生を無為にしたくはない。

夢千代

2013年12月14日土曜日

武士の一分


今日、12月14日は、私のご先祖様、寺坂吉右衛門が、他の赤穂義士たちとともに、主君浅野内匠頭の遺恨を晴らすために、吉良邸に討ち入り、見事、本懐を遂げた日です。

私の父は、今日、泉岳寺へ。

私は、久しぶりに横須賀中央へ行っておりました。

横須賀中央と、そして平坂を上ったところにある上町は、私のふるさとです。

最近、岩戸に越したばかりで、こちらの生活にもようやく慣れては参りましたが、どこか言いようのないストレスがたまるのですね。
もともと私は、静かな土地で暮らすことを夢見ておりました。

ここ数年は、人間というものに疲れてしまい、特に田舎暮らしに憧れていましたから、ここは田舎というほどの場所ではありませんが、それでも近くに山あり川あり、そんな生活をありがたく思っていたのですね。

久々に横須賀中央に出てみて驚きました。
中央と申しましても、これは上町のことなのですが、空気が違う。

これは、空気が良い悪いではなくって、歴史の重みと言いますか、風格といいますか、明らかに街の中心街、確固とした王者の雰囲気をかもし出しているのです。
木が、家々が、街の至る所にある路地や、人の顔つきも違う。

私は、こんなところに生まれ、ここで育ったのか、と、まだ引越して数ヶ月した経たないにも関わらず、新たな発見をしたのです。

ところで、私は最近ある方から、身に余るようなお褒めの言葉を頂戴致しました。
社会的地位も高く、またそのお人柄も人としての器も、尊敬できるような方から、私の知的能力や感性について喜ばしいといったような内容でありました。

私は、すぐに「恐縮致します」と申しましたが、続けてこのように申し上げました。

「しかしながら、我が事を離れ、この国の未来のことを憂うこの気持ちがどこから来ているかと申しますと、私もきっとサムライの血が流れているのです」と。

三つ子の魂百までもと申します。

両親の教育というものは、皆さんが思った以上に、私たちの心を、そしてまた、生き方、考え方、感じ方の原点となる大切なものです。
私は、この家系に生まれたこと。そして、横須賀中央に生まれたことに、誇りを持ちます。これから私が、どんなに大きな仕事を成し遂げた時にも、私の原点は、常に、この二つから生じていることを、皆さん覚えておいてください。

夢千代

                                       画像:イラストポップ

2013年12月8日日曜日

クリスマスとミトラ教の関係






                   
クリスマスの季節が近づいてきました。

クリスマスというと、皆さんは何を思い浮かべるでしょう。

クリスマスのメインカラーは、赤と緑と金なんですって。

赤は、キリストの血を、緑は復活を、金はこの世の繁栄を示しているのだとか。


10年くらい前でしょうか?
クリスマスの12月25日の日が、イエス様がお生まれになった日ではなく、冬至(太陽の復活)と深い関係があることを知ったのは。

キリスト教が出来る前、ローマ帝国ではミトラ教という宗教が、ありました。
時の皇帝なども、信仰していたそうですが、今ではそれほど詳しいことは文献にも残っていません。

ただ、12月25日という日が、「太陽の復活祭」としてあてがわれていたものを、そのままキリスト教が受け継いだということは、割合よく知られているようです。
(昨年の紫微垣もこれにならって、冬至祭りを行いましたね)

昨日、世界ふしぎ発見で、ローマにある、このミトラ教の遺跡、神殿などが紹介されていました。

それによると、ミトラ教の神であられるミトラス神が、牛を殺そうとしている当時の壁画が残されており、このモチーフはミトラ教にとってとても重要なものなんだそうです。

牛というと、私などは丑寅の季節、陰の極まりである丑のことを思い浮かべてしまうのですが、それを殺すということは、春の訪れを意味するという、ミトラ教の牛が何を意味するものであるかまでは、放送されていませんでしたが、もしかしたら、東洋の12支ともどこかでつながっているのではないかなどと、想像を膨らませたのでした。

                                   画像提供:風と樹と空とフリー素材

夢千代

今日学んだこと

イタリア語で『オーティウム』何もしない時間。


2013年11月26日火曜日

自分と違う立場の人


11月23日(祝)私の古巣、劇団河童座のお芝居、「わしゃ喰っちょらん」を観に行く。
11月24日(月)ずっと見たかった映画「ツレがうつになりまして」をDVD鑑賞。


「わしゃ喰っちょらん」は、横須賀の劇団、河童座の精鋭メンバーによる、痴呆症になった老人と、その家族の物語。
ツレがうつになりまして 「ツレがうつになりまして」は、堺雅人と宮崎あおい演じる、うつ病の夫とその妻の物語。

これを続けて観ることによって、自分という人間の良識がいかに狭いかということを思い知らされる。


現代(特にこの20年)は、力づくで個性や数字を形作るためだけに終始してしまい、人としてのあり方、命の尊厳が軽視されている世界のように、私は思えてならない。
がんばっていても、人と同じように出来ないという理由だけの人に、人は次のような言葉を畳み掛けて、彼の一厘の希望の光さえも閉ざそうとする。

「頑張ればどうにかなる」
「やってやれないのは、やらないからだ」


その結果、人は発言することを辞めた。


どうせ言っても判ってもらえない。

理解して欲しくって、「私たち」にしかわからない孤独を共感して欲しくって、勇気をもって発言することに対して、人は果たしてどれほどの人間としての理解に対する努力と情けや暖かさを、彼に対して持てたのだろうか?


私が観た両者の家族は、とても優しかった。
物語に登場する、周囲の人たちには、本当の悪い人などいなかった。


しかし、現実はそうではない。

そう簡単には、人は人の苦しみを理解しようとはしない。

発言せずに泣き寝入りをしている人がどれだけ多いことか…。

社会に発信するための、上手い言葉が言えないから、言い返されずに(なるほど、そんな世界もあったのか)と思わせられる良い言葉が見つからないから、人はさらなる孤独の沼へと落ちていくのである。

こうした目に見える判りやすい「言葉」を発信出来る先駆者には、多大な恩恵が授かるだろう。


痴呆症の人や家族、そしてうつにかかっている人や家族たちは、彼らのおかげで、ただ一言言えば、どんなに頑なな人でも、少しは理解出来るようになるのだから。

「ねぇ、これ見てみてよ」って。


2013年11月3日日曜日

正義の人

 
私がある先生のところで体験したお話しです。

 「良くない人」とされている人のことを、一人の若い女性が激しく責め立てる場面があったんです。

 「良くない人」とされている人は、確かに生き方になにかしら問題があるのかも知れません。

 しかし、それを責め立てている女性は、「良くない人」を激しく責め立てられるほどの、生き方などしていない人だったのです。

 それなのにどうして、他の人には決して見せないような言動を、「良くない人」だけに彼女は見せたのでしょうか…?


 「良くない人」は彼女の心が映し出された鏡だったのです。


 彼女は、そこに写る自分の姿が、どうしても許せなかったのです。

 
 どうしても認めたくなかったのです。


夢千代