2013年12月18日水曜日
「執着」と「支配欲」
昨日、私の奥さんの久美さんの2日間に渡るホームコンサートが終了しました。
コンサートには、ある小学校の学校の先生方もお見えになったんですけれど、その時に現在の子供たちのことについてのお話しになりました。
家には、私の両親や、母の友人など、私や久美さんの小さい頃の「子供たち」を良く知る大人たちがいました。
大人たちが、こんな質問をしました
「先生、昔の子供たちと今の子供たちと、何か違うことはありますか?」
その前に…、私も、パソコンを子供たちに教えるという仕事で、何件か小学校にお邪魔したことがあるんですけれど、私が感じたこの質問に対しての私の答えを申し上げておきます。
「子供たちも先生も、昔とさほど変わらない。子供は子供だし、先生は先生」です。
さて、先生は、子供たちの現状をお話しくださいました。
「子供たちが朝ごはんを食べずに登校して、倒れてしまう子がいるので、校長先生がそういう子を呼んで、校長室でカップラーメンを食べさせてあげます」
「怪我をしている子がいたのでどうしたのか聞いたら、お母さんが「明日、学校に行って保健室で手当てしてもらいなさいって言われた」というので、保健の先生は、そういう子達を手当てすることに最近なれました」
私たちの世代の感覚では、ちょっと信じがたいお話しだったのですね。
これ以上の詳しいお話しについては、どこまでが守秘義務になるのか存じませんのでこれくらいにしておきますけれど、そこにいる全員が、これは子供ではなくて、親が変わってしまったんだな…という結論に至りました。
「現代の親御さんは、皆、働いていて忙しい」と先生方は、言います。
しかしながら、
「親は、子供よりも、自分のやりたいことを優先しているのだ」と言います。
そして、「子供は親のペット」ではないのだろうかと言います。
私は、「親が子供なのだ」と言いましたら、先生方は「そのとおりです!」と言いました。
小学生の親御さんと言ったら、ほとんどが私たちより下の年代でしょう。
ところが!ただ、若いからというだけではない。私たちの親の世代の中にも、そういった、子供よりも、自分たちのやりたいことを優先するという人種が存在するのです。
それが、悲しいかな、私たちの親世代の中にも、存在している…。
2013年。私の今年一年は、思えばそういった人種たちとの戦いの連続でした。
人として決して尊敬出来ない、惨めで哀れな大人たち。。
次の世代、子供たちの未来。
周囲の人たちの幸せ。
~そんなことはどうでもいい。
~お前なんか、どうだっていい。
↓何かとあると決まって彼らは、このキーワードを口にします↓
「『私』にはそれを得る『権利』があるのだ!」
…ようは『執着』ですね。『我執』『我欲』。
(自分の思い通りにしたい)
自分の思い通りにしたら、今度はそれを拡大していきます。
『支配欲』。『征服欲』。
「運」というものについて、長年多くのことを学んで来ましたけれど、運の正体は「心」ですね。心が豊かでなければ、一度得ても、どこかで破綻する。悪銭身につかず。猫に小判。豚に真珠。
私は、世界なんか欲しくない。
すでに世界のすべてのものは、与えられています。
すべてのものは、神様のもの。神様のものは、私たちのもの。
そして、私たちは神様の子。お借りしていた、この世のすべてのものは、死んだら全部神様にお返しする。
世の中には、自分の知識をひけらかしたり、実力のあることを、これでもかと世間様に強引に認めさせようとする輩がいますが、私にはどうして彼らがそうやって背伸びをして、分不相応のものを手に入れたいと思うのか理解出来ません。
きっと、心が貧しいのです。
仏教でいうところの、餓鬼。
そこから出ない限り、彼らは永遠に本当の幸せはつかめません。
私や妻は、他所様の家庭ほど、収入こそ豊かではありませんが、背伸びをして無理に認められようなんてしたくはないと思いながら、お互いにずっとそうやって生きてきました。
天から与えられた、生まれたまま、ありのままの心と体を使って、私たちの出来る限りのものを伝え残して、世間様からさらに学びを得、寿命が来たら「今までありがとう」と言って、死んでいく。
それが、成功だろうが失敗だろうが、私たちにそんな物差しは必要ない。
ただただ、つまらないことで心を痛めて、自分の人生を無為にしたくはない。
夢千代
2013年12月14日土曜日
武士の一分
今日、12月14日は、私のご先祖様、寺坂吉右衛門が、他の赤穂義士たちとともに、主君浅野内匠頭の遺恨を晴らすために、吉良邸に討ち入り、見事、本懐を遂げた日です。
私の父は、今日、泉岳寺へ。
私は、久しぶりに横須賀中央へ行っておりました。
横須賀中央と、そして平坂を上ったところにある上町は、私のふるさとです。
最近、岩戸に越したばかりで、こちらの生活にもようやく慣れては参りましたが、どこか言いようのないストレスがたまるのですね。
もともと私は、静かな土地で暮らすことを夢見ておりました。
ここ数年は、人間というものに疲れてしまい、特に田舎暮らしに憧れていましたから、ここは田舎というほどの場所ではありませんが、それでも近くに山あり川あり、そんな生活をありがたく思っていたのですね。
久々に横須賀中央に出てみて驚きました。
中央と申しましても、これは上町のことなのですが、空気が違う。
これは、空気が良い悪いではなくって、歴史の重みと言いますか、風格といいますか、明らかに街の中心街、確固とした王者の雰囲気をかもし出しているのです。
木が、家々が、街の至る所にある路地や、人の顔つきも違う。
私は、こんなところに生まれ、ここで育ったのか、と、まだ引越して数ヶ月した経たないにも関わらず、新たな発見をしたのです。
ところで、私は最近ある方から、身に余るようなお褒めの言葉を頂戴致しました。
社会的地位も高く、またそのお人柄も人としての器も、尊敬できるような方から、私の知的能力や感性について喜ばしいといったような内容でありました。
私は、すぐに「恐縮致します」と申しましたが、続けてこのように申し上げました。
「しかしながら、我が事を離れ、この国の未来のことを憂うこの気持ちがどこから来ているかと申しますと、私もきっとサムライの血が流れているのです」と。
三つ子の魂百までもと申します。
両親の教育というものは、皆さんが思った以上に、私たちの心を、そしてまた、生き方、考え方、感じ方の原点となる大切なものです。
私は、この家系に生まれたこと。そして、横須賀中央に生まれたことに、誇りを持ちます。これから私が、どんなに大きな仕事を成し遂げた時にも、私の原点は、常に、この二つから生じていることを、皆さん覚えておいてください。
夢千代
画像:イラストポップ
2013年12月8日日曜日
クリスマスとミトラ教の関係
クリスマスの季節が近づいてきました。
クリスマスというと、皆さんは何を思い浮かべるでしょう。
クリスマスのメインカラーは、赤と緑と金なんですって。
赤は、キリストの血を、緑は復活を、金はこの世の繁栄を示しているのだとか。
10年くらい前でしょうか?
クリスマスの12月25日の日が、イエス様がお生まれになった日ではなく、冬至(太陽の復活)と深い関係があることを知ったのは。
キリスト教が出来る前、ローマ帝国ではミトラ教という宗教が、ありました。
時の皇帝なども、信仰していたそうですが、今ではそれほど詳しいことは文献にも残っていません。
ただ、12月25日という日が、「太陽の復活祭」としてあてがわれていたものを、そのままキリスト教が受け継いだということは、割合よく知られているようです。
(昨年の紫微垣もこれにならって、冬至祭りを行いましたね)
昨日、世界ふしぎ発見で、ローマにある、このミトラ教の遺跡、神殿などが紹介されていました。
それによると、ミトラ教の神であられるミトラス神が、牛を殺そうとしている当時の壁画が残されており、このモチーフはミトラ教にとってとても重要なものなんだそうです。
牛というと、私などは丑寅の季節、陰の極まりである丑のことを思い浮かべてしまうのですが、それを殺すということは、春の訪れを意味するという、ミトラ教の牛が何を意味するものであるかまでは、放送されていませんでしたが、もしかしたら、東洋の12支ともどこかでつながっているのではないかなどと、想像を膨らませたのでした。
画像提供:風と樹と空とフリー素材
今日学んだこと
イタリア語で『オーティウム』何もしない時間。
2013年11月26日火曜日
自分と違う立場の人
11月23日(祝)私の古巣、劇団河童座のお芝居、「わしゃ喰っちょらん」を観に行く。
11月24日(月)ずっと見たかった映画「ツレがうつになりまして」をDVD鑑賞。
「わしゃ喰っちょらん」は、横須賀の劇団、河童座の精鋭メンバーによる、痴呆症になった老人と、その家族の物語。
ツレがうつになりまして
「ツレがうつになりまして」は、堺雅人と宮崎あおい演じる、うつ病の夫とその妻の物語。
これを続けて観ることによって、自分という人間の良識がいかに狭いかということを思い知らされる。
現代(特にこの20年)は、力づくで個性や数字を形作るためだけに終始してしまい、人としてのあり方、命の尊厳が軽視されている世界のように、私は思えてならない。
がんばっていても、人と同じように出来ないという理由だけの人に、人は次のような言葉を畳み掛けて、彼の一厘の希望の光さえも閉ざそうとする。
「頑張ればどうにかなる」
「やってやれないのは、やらないからだ」
その結果、人は発言することを辞めた。
どうせ言っても判ってもらえない。
理解して欲しくって、「私たち」にしかわからない孤独を共感して欲しくって、勇気をもって発言することに対して、人は果たしてどれほどの人間としての理解に対する努力と情けや暖かさを、彼に対して持てたのだろうか?
私が観た両者の家族は、とても優しかった。
物語に登場する、周囲の人たちには、本当の悪い人などいなかった。
しかし、現実はそうではない。
そう簡単には、人は人の苦しみを理解しようとはしない。
発言せずに泣き寝入りをしている人がどれだけ多いことか…。
社会に発信するための、上手い言葉が言えないから、言い返されずに(なるほど、そんな世界もあったのか)と思わせられる良い言葉が見つからないから、人はさらなる孤独の沼へと落ちていくのである。
こうした目に見える判りやすい「言葉」を発信出来る先駆者には、多大な恩恵が授かるだろう。
痴呆症の人や家族、そしてうつにかかっている人や家族たちは、彼らのおかげで、ただ一言言えば、どんなに頑なな人でも、少しは理解出来るようになるのだから。
「ねぇ、これ見てみてよ」って。
2013年11月3日日曜日
正義の人
「良くない人」とされている人のことを、一人の若い女性が激しく責め立てる場面があったんです。
「良くない人」とされている人は、確かに生き方になにかしら問題があるのかも知れません。
しかし、それを責め立てている女性は、「良くない人」を激しく責め立てられるほどの、生き方などしていない人だったのです。
それなのにどうして、他の人には決して見せないような言動を、「良くない人」だけに彼女は見せたのでしょうか…?
「良くない人」は彼女の心が映し出された鏡だったのです。
彼女は、そこに写る自分の姿が、どうしても許せなかったのです。
どうしても認めたくなかったのです。
夢千代
2013年10月24日木曜日
人を育てる心
神社に行くと「まことの道」と書かれた短冊が、積み重ねて置かれており、ご自由に一枚づつお持ち下さい。と書かれている。発行は、神奈川神社庁。毎月出ているのか、「十月」と添えられている。
私自身にとっての覚書としても、そばに置いて置きたい言葉だから、ここに記しておこうと思う。
世の中に人を育つる心こそ
我をそだつる心なりけれ
荒木田守武『世中百首』
裏書もスッと腹に入る言葉だから、そのまま転載させていただきたいと思う。
「すべての物を生かし、伸ばすことが神道の産霊(むすび)の教えである。
そのためには“俺が、俺が”という“我”があったのでは、自他共に生成化育を阻害することになる。
共にすべてを生かすためには、無私・無欲であり、生かされて生きる道を知るべきである。
その意味で、この和歌は神道の二つの教を併せて説いたものとして、俚耳(りじ)に入り易い調べを持っている。即ち人を立てるものにして初めて人に立てられ、人を生かすものにして、初めて自分の生かされるのが、古今の真理である。
人を愛して愛される。同胞相愛についても、その順序はまず人を愛する所から始めるべきである。」
(神道文化会編『神道百言』より)
これは、現在の私の先生から学んだ「母性」に通ずるものである。
わかりづらかった、産霊(むすび)の意味も、これでようやく理解出来た。
実に神道らしい。強いては、わが国日本らしい、深く、簡素な、良き、教えである。
夢千代
2013年10月23日水曜日
何も変わらない
明け方、夢を見た。
新居にきて、二ヶ月が経った。
朝、いつものようにゴミだしに行こうとして目を覚ます。
大きなポリバケツのゴミのふたを開ける。
中には何も入っていない。
(あぁ、結局ここには何も捨てなかったんだな)
昨夜、祖父と祖母が何か言い合っていたことを思い出す。
周りを見渡すと、壁面の上から下まで、びっしりと綺麗に並べられた革靴がある。
レジのある方から、店の中を見渡すと、そこにはいつもの良く知った靴屋の光景があった。
(なんだ、何も変わらないじゃないか)
そう思い、ほっとする。
ふと目の前に、僕が持ってきたはずの古いそろばんが置かれていた。
(全部持ってきたと思っていたのに、まだ残ってたのか。こんなことなら、そのまま置いておけば良かったかな)
この場所があるなら、僕が持っていても意味のないもの。
でもそのそろばん、どこか形がおかしい。
僕が持ってきたそろばんは、五つ玉だが、そこにあるそろばんは、三つ玉!?である…。
五を数えるための珠が、上にひとつ。
一を数えるための珠が、下に、三つ…。
やけにそのそろばんだけが、意識の中にクローズアップされる。
なにかが、おかしい。
でも、それ以外は何も変わらない。
何等、変わるところはない。
それなのにそのそろばんだけが、非日常さを物語っていて…。
僕はようやく、これが「夢」なのだと感じる。
夢なのだと感じながら、確かに存在したこの日常の空間。
夢の最初にほんの少し登場した
じいちゃんやばあちゃんの心の心象風景だということを、
理解する。
古い家から、新しい家に持ってきたものは、五つ玉のそろばんだけ、じゃあない。
家の象徴である、仏壇もまた新しい我が家に越してきた。
これからもまだまだ健在である僕の両親に代わって、僕が仏壇を引き取ったのには訳がある。
毎日、いつものように僕が続けていた習慣を、そのまま続けさせてもらいたかった。
そう、みんなに頼んで、僕のわがままを聞いてもらった。
祖父母が暮らした心象風景。
その記憶とこの光景を、僕は辛うじておなじものを共有している。
現実の世界では、もう数年も前に変わってしまったはずなのだけれど、
明け方に見た夢の中では、
その世界こそが現実であって、
よく知った世界であって…。
そんな共通の心象風景を持ちつつ、
今(その後の未来)を生きながら経ている僕が、
すでに変わり身となってしまった祖父母に対して、手を合わせたら、
その心霊空間には、それぞれのどんな想いが交錯するのだろうか。。
今日も新しい一日がはじまる。
わが家のゴミボックスから取り出したゴミは、先ほど収集所へ置いてきた。
これから、仏壇の前に行き、今朝見た夢のことを祖父母に報告してみようと思う。
きっと喜んでくれるに違いない。そう思っている。
夢千代
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